虐待の根本にあるもの

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東京・目黒の虐待死女児、生前に悲痛な手紙

このニュースをきっかけに湧いた想いと

現在の考えを、自分の心と向き合いながら

ここに書き綴っています。

 

前回の記事はコチラ⇒『書かないではいられなくなったこと

 

何回も引用するには心の痛みが強すぎる文章ですが

被害者の結愛ちゃんが遺したノートを

もう一度、よくよく読んでみます。

 

ママ もうパパとママにいわれなくても

しっかりじぶんから きょうよりか

あしたはもっともっと できるようにするから

もうおねがい ゆるして ゆるしてください

おねがいします

ほんとうにもう おなじことはしません ゆるして

きのうまでぜんぜんできてなかったこと

これまでまいにちやってきたことを なおします

これまでどんだけあほみたいにあそんだか

あそぶってあほみたいだからやめる

もうぜったいぜったい やらないからね

ぜったい やくそくします

 

おねがい ゆるして ゆるしてください

おねがいします

ぜったい、ぜったい やくそくします

 

何を、ゆるして欲しかったのか?

ぜったい、ぜったい やくそくします・・・・の次にくる言葉は

何だったのでしょうか?

 

痛い思いをすること?

独りで寒いところに置いてきぼりにされること?

お腹がすいたのに食べさせてもらえないこと?

 

すべてはYESだと思います。

 

でも

 

なんで痛い思いをさせられるの?

パパとママと弟とお出かけするのに

なんでわたしだけおうちにひとりなの?

お腹すいてるのになんでみんなと一緒に食べられないの?

 

それは、わたしがゆるされていないから

 

わたしがここにいることを

わたしが遊んでいることを

わたしがおいしく食べていることを

わたしがここで生きていることを

 

わたしは、ゆるされていない

 

どんなことでもします

今日できなかったことも、明日はできるようになります

パパとママがいやなことはぜったいしません

どんなことも我慢します

 

だから、わたしが生きていることを

わたしが存在していることを

どうか、ゆるしてください

 

どうか わたしを

わたしがここで生きていることを

受け入れてください

拒絶しないでください

 

5歳の、ひらがなを憶えたての女の子が書いた手紙の

本当に言いたかった最後の言葉は

これではなかったのか?

 

と、私は思っています。

 

 

前回の更新で、私自身も被虐サバイバーであると書きました。

親に虐待を受けて育ち、生き残って大人になった人=「被虐サバイバー」

 

実のところを言えば、私が親に殺されていた確率は

非常に低いと思います。

(事故に遭って死んでしまう確率は、普通の親に育てられた子よりは高かったかもしれません)

 

子を虐待死させてしまう親と、虐待はするけれど自ら殺すことはない親との違い=境界線は歴然とあります。

これは本当のことを深く勉強する機会を得れば理解できる事実ですが、ここでは敢えてこの点に詳しく言及することはしないでおきます。

 

 

問題は

子を死にまで追いやる虐待(身体的暴力やネグレクトなど)と

子が死なずに大人になる虐待とでは

子が受ける心の傷の深さに違いがあるだろうか?

というところです。

 

死の危険を伴う程の暴力や、生きるのに必要な食事や衣服などを与えないネグレクトという虐待が、生き延びた子どもにとってどれほど強い痛みとして刻まれるか、どれほど深い心の傷となるかは、その経験がない人にも想像することはできると思います。

 

ところが、さしたる激しい暴力もない、食べるものも着るものも与えられている、しかし確かに虐待である、というケースは想像を遥かに超える数だけ起こっています。

このことについては、このブログでもしばしば述べてきました。

⇒『これを必要な人に伝えたい

⇒『子の心を自分のことのように感じてしまうのが「普通の親」です

⇒『これがお母さんというもの

⇒『愛着関係が成立しない親とは?

 

これらの記事では、すべての虐待に共通してあるものは

心理的ネグレクト

である、ということを説明しています。

 

子どもが「心理的ネグレクト」のみを受けて育った場合、その心の傷は、身体的暴力や性的虐待や心理的暴力や身体的ネグレクトのあった子どもより軽いのか??浅いのか??

 

・・・・・・・・・・・

 

答はNOです。

 

暴力があろうと、なかろうと

暴言で追い詰められようと、何も関心が払われなかろうと

食べ物、着る物が与えられなかろうと、あてがわれようと

性的虐待があろうと、なかろうと

 

母親に心理的ネグレクトがあれば

子どもが受ける心の傷は、同じ深さと強さになるのです。

 

なぜでしょうか?

その答えは結愛ちゃんの手紙の中にあります。

 

本当に欲しかったのは、、ママに「わかってもらえてる」という安心だったから

「結愛が生きていて、そこにいてくれてママは嬉しいよ」という存在の受容だったから

 

母親は「継父による暴力・虐待が発覚するのを恐れていた」という供述があったようですが、本来の母親であれば命を賭けてでも我が子の命を守るでしょう。

そこにはっきりと見えてくるものは、母親側にある「心理的ネグレクト」=「子の痛みを自分のことのように感じてしまう母心の欠如」です。

 

思い切って極端なことを言ってしまえば

親が貧困や病気によって、我が子に満足に食べ物や着るものを与えられない状況

或いは母親自身の強い恐怖や不安から思わず子どもに手を上げてしまう瞬間があったとしても

子どもが「お母さんはわかってくれている」

「お母さんは私がここに生きていることを受け容れてくれている」と確信でき、心の交流が確かにあることさえしっかり感じられているならば、心の傷はほとんど残らないと私は思っています。

 

これまた非常に極端な言い方で、過激に過ぎると承知で書きますが

母親と子供との間に、しっかりとした心の交流(親が子を自分のことのように感じ、子を案じ、想うと、子どももそれを感じて安心する)さえあるならば

子は親の為にどんな苦しみも(時には死さえ)喜んで受け入れます。

子どもって、そういう存在なんではないでしょうか?

 

しかし、これは逆説であり、親に子の心を自分のことのように感じる能力があるならば、子に苦しみを強いることは我が身を切り裂く痛みに等しいのですから、余程のことがない限り(特殊な例外的ケースを除けば)実際には起こりえません。

 

子は、お母さんに、わかってもらいたいのです。

子は、お母さんに、自分を受け容れてもらいたいのです。

 

お母さんが子の心をわからない、感じられない、そのことに母親としての痛みがないのならば

それは「虐待」です。

お母さんが、子の存在を我が身と同じように受け容れていないのであれば

それは「虐待」です。

 

 

お母さんのことを想えば、いつどんな状況でも「安心」を思い出すことができる

どんなに困難な状況にあろうとも、お母さんの面影を浮かべるだけで、勇気を持って前を向いて行こう!という氣持ちが自然に湧いてくる

 

このような実感を自然に持っている人が

「普通の」人です。

「普通の」人々にとっては、わざわざ言葉にする必要さえないことであり、滅多に意識にのぼることすらないこと、です。

 

一方

お母さんは、私を愛している

お母さんは、私を大切に想ってくれている

お母さんは、私のためを思うからこそこれをしている

と、意識的に何度も自分に言い聞かせないではいられないなら

それは、「普通ではない」ことなのかもしれません。

 

「虐待」はその当事者にさえ知られることなく

静かに起こり続けています。

 

その時、子が受ける心の傷の深さは

暴力・ネグレクトで死へと追い詰められた子のそれと

少しも変わるものではありません。

 

 

 

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