年明けからいきなり始まった母の施設入居騒動

 

今までこのブログには書かずにきましたが

実は、母のことと、それに伴う私たちの引っ越しと並行して

私にとっては人生史上初の記念すべき(笑)挑戦が

同時進行していました。

 

声楽コンクールを受けたのです。

 

一般的に器楽に比べて声楽のコンクール適齢期(?)は

20代後半から30代まで、比較的遅く、長いのですが

 

それにしても私は50代半ば・・・・(-_-;)

年齢制限があるものも多いので

既に応募資格がないコンクールも多々あります。

 

年齢制限のないコンクールを幾つか探して

その一つにエントリーしました。

それが、母の「立てない事件」勃発直後でした。

 

本当のところ

自分の歌の練習どころじゃない、という緊急事態でしたし

どこかに「歌ってる場合じゃないでしょ!」みたいな気持ちも

ありましたが

 

昨年、秋ごろから漠然と、「受けてみたいなぁ」と思っていて

指導してくださっている先生にもその氣持ちを

お伝えしてあったので

なんだか騒動を理由に立ち消えにしてしまうのは厭だったのです。

 

一次予選は音源審査で、自由曲を録音してCDに焼き

本選までの曲目などを記した応募申込書と共に送るのですが

 

1月15日消印有効のそれを郵送したのが14日でした。

そのくらい、伴奏者を頼んでの録音もギリギリなら

選曲を決定するのもギリギリだったのです。

 

録音しなければもう間に合わないと焦り始めたその頃は

まさに母の施設探しの真っ只中で

朝から夜まで誰かと会って相談しながら

母の自宅介護の様子も見ながら

着々と手続きを進めていかなければならない時だったので

 

歌のことを考える時間は、ピアノの前に立つ30分程だけ…

みたいな毎日が続きました。

 

ですから一次予選通過の通知を受け取った時は

ホッとしたのと同時に

こんな体たらくでコンクールに臨んでるコンペティターは

他にいないだろうなぁと、ちょっと申し訳ない感じもありました。

 

そして、二次予選には高校時代の同級生に伴奏をお願いし

江戸川区の東部フレンドホールへ歌いに行ったのですが

それが2月17日のことです。

 

いやいや、とっても歌いやすいホールでした♪

 

2月17日と言えば、母の施設入居が済んだ後

空き家状態になった実家へと私たち夫婦の引っ越しを

1週間後に控えているという時期でした。

 

実は、二次予選のその日の午後ギリギリまで

私は実家の片付けをしていました。

殆どゴミ屋敷のようになっていた実家は

引っ越しまでの間、一日たりとも手を休めずゴミを捨て続けても

間に合うかどうか微妙な状態でした。

 

コレ可燃、可燃…これは不燃、プラ、瓶と缶はこっち…と

朝早くから延々とゴミの分別をしていて

「あ、もう行かなきゃ間に合わない!!」と

ジーンズ(・・・・じゃなくて今はデニム?)のまま

ドレスを突っ込んだキャリーバックを引きずり

会場に向かいました。

 

演奏後、皆してロビーで

審査結果が貼り出されるのを待つ間

「コンディションを整えるも何もできない状態で

やるだけのことはやったではないか」と半ば

諦めの境地になっていました。

 

それと同時に、怖れより喜びが

不安よりワクワク感が

落胆より満足が

自分の中に大きく湧いているのを感じて

不思議なような、慣れなくてくすぐったいような

そんな気持ちでありました。

 

そうです、慣れないのです。

怖れと不安、演奏後の落胆と無念さ

歌うと言えば、それらと無縁でいられなかった自分が

つい数年前までいたことを

私の意識はしっかりと覚えていたからです。

 

 

 

今から7年ほど前に、痙攣性発声障害と診断され

その後、フォーカル・ジストニアであると判明しました。

 

まずは歌う声が出ない

歌声のコントロールがまるでできない状態は言うまでもなく

一時は、日常の喋る声も出なくなっていき

カフェで注文もできない、電話でも話せない

夫に「おはよう」と言うこともできなくなりました。

 

そのうち次第に身体の自由が利かなくなり

まともに字を書くことも

差し出してもらった物を

ごく普通に受け取ることすらできなくなったのです。
(手が思う場所に行かないのです。)

 

明らかに異常である、と自分で認識したのは7年前ですが

声の出にくさを感じ始めたのは高校2年生くらいの頃からですから

恐らくジストニアの発症はその頃

以降、30年間、そうとは知らないまま

脳の制御が利かなくなるというこの病気と共に

ずっと(細々とではありますが)プロの声楽家として

歌ってきた訳です。

 

その間、コンクールを受けようなどという考えは

ちらりとも浮かびませんでした・・・・というと、嘘です(^▽^;)

実は、若い頃は夢見ていました。

声楽コンクールに挑戦して、入賞して

華々しい経歴を作って、第一線で活躍する…なんてね(^^;)

 

声楽家を志すなら、そうあるべき、そうならないでは!

みたいな想いも確かにあったと思います。

 

けれど、実際はどうだったかと言うと

自分の歌の巧拙を世に問うなんていう究極の恐怖に

自ら向かって進んでいくなんて、当時の私にとっては

“狂気の沙汰”だったのでした。大袈裟ではなく・・・・。

 

じゃあ、なんでプロとして歌ってなどいたのか?と問われると

答えに窮するのですが

 

自分の歌に対して、致命的なほどの自信の無さと

欲求不満を持ちながらもなぜか歌い続けた

事実と言えるのは、これだけです。

 

人に自分の歌を聴かれるのが心底恐ろしく

自分が声を発すること、それ自体に強い抵抗を感じつつ

常にその不安と恐怖に怯えながらステージに立ち続けたのは

「このままでは終われない」という意地もあったでしょうし

歌うことをやめたら自分はもう生きていられない、という

根拠のない、でも切実な想いがあったように感じられます。

 

単純に「歌って生きていきたい!」という強い欲求の炎を

消すことができなかっただけなのかもしれません・・・・

 

 

伴奏を弾いてくれた友人が

「あるわよ!絹の名前がある!」と

教えてくれて我に返りました。

 

54歳にして生まれて初めて受けたコンクールで

二次予選を通過し、プロフェッショナル部門ではたった5人

本選へと残った瞬間でした。

 

つづく・・・・

 

 

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