知的能力障害を持つ人は、その年齢に応じた社会的ルール(社会規範)の理解がないか、もしくは浅いので、社会を社会たらしめている秩序を他者と共有することができません。
しかもその自覚がないために、社会の歯車と噛み合わないだけでなく、自ら調整することができません。
本人自身の生き心地はどうなのでしょう?
私の母を見る限り、他者や社会との交わりにおいて、自分の思い通りに運ばない、彼女にとっては不都合や不愉快な出来事に遭遇することは少なからずあるようで、他者と衝突することもあるのですが、少なくとも、私たち通常知能の人が感ずるような自己嫌悪感や、自責感、反省、後悔などがないところだけを取り上げると、生きていることが辛いと感じることはないようです。
実際に、母に訊いてみたことがあります。
「自分の行いや、取り囲まれている状況によって、無力感に襲われたり、それによって無気力になったりしたことはない?」と。
母の応えは「身体が疲れて動けないことはあるけど、無気力ってどういうことだかわからない・・・やりたいことは、いつでもやりたいし、だから私は常に意欲的なのよ。憂鬱という気分の状態をあなたからも他の人からも聞くことがあるけど、私には感じた経験がないので、どういうことか知らない」ということでした。
なかなか腑に落ちませんでしたが、高橋和巳先生が繰り返し仰ってくださったこと
「あなたのお母さんは幸せにしかなれない人だから、一切心配することはないよ。あなたは自分のことを一番に考えなさい」ということが、時間をかけて次第次第に理解できるようになりました。
さて、ここからが今日の記事の本題です。
軽度知的能力障害と境界知能領域にある人の行動上の特徴を見ていきたいと思います。
◆自己客観視・自己洞察ができない
これは非常に特徴的な側面で、母を見ていると大きな問題を引き起こす直接の原因になっているのはコレに尽きるのではないかと思われるほどです。
自分のしたことが人をどんなに傷つける結果になったとしても、決して反省という心の状態はやって来ません。
問題が起これば、それは一つの例外もなく「他者のせい」であり、自分に非や落ち度はない、と疑いません。
ですから、心の底から相手を憎み、ヒドイ人だと罵ることが、良心の呵責なくできます。
また、自分の行いや振舞、言動が他者からどう見られているか、考えられません。
状況も、他者の心情も、自分の姿を含めたその場の空気も、あらゆることを「俯瞰」することができません。
自分の感情と欲求がすべてで、それだけに従って行動します。
皮肉な言い方をすると、彼女自身が
「今、私はいい人でありたい、優しい人でありたい」
という心持ちであれば、嘘偽りなく偽善でもなく、心から人に対して親切で優しい行いができます。
◆社会規範・社会的視野がない
ルールや約束を守れないことが多いです。
そして守れなくても悩みません。
守れなかったことに自責感がありません。
また、約束やルールの意味が本当にはわかっていません。
守るのは人から怒られるから、という理由です。
父が生きていた頃、母は約束はちゃんと守る人でした。
(それ以外は困ったことの多い人でしたけれど)
今にして思えば、父によって守らされていたのでしょう。
そういう時の母はちゃんと人の道を踏み外さず生きている自分にホッとしているような気配が感じられました。
父が亡くなって実家に戻った当初、母との付き合い方は、幼い頃からの「支配↔服従」しか知らなかった私は、母の気に入るように文句ひとつ言わず彼女の言うことに逐一合わせていました。
そうしたら、もう我が儘放題だし、理不尽全開だし、それでも耐えていると、自己中極まりない無理難題を言って来て、とても応えられない、となると意味不明な難癖をつけ罵倒三昧の日々になってしまいました。
お陰で母は父の急逝ショックから案外ケロッと立ち直ったのですが、反対に私は身も心もズタズタになってしまいました。
現在、いろいろ分かってきた私は、母に対して
「ダメなものはだめ」
「できないことは無理強いしてはいけない」
「私はそれを望んでいないのでいくら頼まれてもしない」
ときっぱり言い渡すようになりました。
すると、母は父が生きていた頃のように、何だかホッとした様子を見せることが多くなったのです。
ある方が
「お母さんにとって身内であるあなたや生前のお父さんはガードレールのよう存在。そのまま好き放題に振舞わせていたら人の道をどんどん外れていくのがお母さん。我が儘を言ってガードレールにぶち当たれば悪態はつくけれども、人の道を外れて崖から落ちてしまわないので、その度に命拾いをしている。それは実はお母さんにとってもありがたいことなんだよ」と教えてくださいました。
なるほど、と母の態度に納得のいった説明でした。
◆心的葛藤がない
我慢ができない。
我慢ができない自分に悩まない。
自分はこうであるべき、という倫理規範を持っていない。
従って、倫理規範を守れない苦しみ、葛藤を味わうことはない。
以前、「悩み」というのは、心の葛藤によって生じるものであるという記事を書きました。
葛藤のないところに「悩み」は生まれません。
そして、葛藤とは、「こうでありたい自分」と「現実として、そうできない自分」が衝突して起こる状態です。
「こうでありたい自分」=「倫理規範」を持たない人にとって、「悩み」は生じ得ません。
だから、母は「悩んだ」という経験がないのです。
(困った、腹が立った、苛立った、という経験とは別物です)
ここを理解して初めて
「お母さんは幸せにしかなれない存在」という意味が、ようやく腑に落ちた訳です。
母に、悩みはありません。
欲求を叶えられないとひどく怒りますが、満たされればケロッとしています。
本当に、悩みはないのです。
だから、泣いたりわめいたり人を罵倒したり暴れたりしながら、本人は心のまま、あるがままで基本的には幸せに生きています。
ここを芯から深く理解できるようになるまで、私は
「母は可哀想な人だ」という考えを拭い去れないまま苦しみを味わってきました。
母を可哀想な目に合わせているのは、この自分自身である、と。
この思いを払拭しきれないでいたら、未だに私は苦しみ続けていたことでしょう。
学び、知り、理解することによって、救われた経験でした。