庭球四十八手 その四 | 『高堂巓古 Officia Blog』
Tue, December 28, 2010

庭球四十八手 その四

テーマ:庭球四十八手

 庭球を恋人にみたて、四十八手をお伝えしたく候。




 【第四手】 手のおもむき。




 コンチネンタルグリップ をお伝えした際、人差し指 を視ていただいた。大日如来像の蓮華拳印に近い像(かたち)である。慈悲を描いているのだそうだ。印度舞踏には、「手おもむくところに眼おもむき、眼おもむくところに心おもむく」という視点がある。指が手をつくり、手が人を導く。今宵は、小指で静かな円をひとつ描いていただきたい。



 『五輪書(水の巻 )』に於いて、「太刀のとりやうは、大指ひとさしを浮る心にもち、たけ高指しめずゆるまず、くすしび小指をしむる心にして持也。手の内にくつろぎのある事悪し」とあるが、私は宮本武蔵のそれとは意見が多少異なる。剣と庭の差であろうか。親指人差し指を浮かせ、中指を適度に、薬指をしめるまではよい。しかしながら、小指はしめるでなし浮かせるでなし情態にしておくべきだとおもう。


『庭球四十八手』

さすがにこれはゲイっぽいドキドキ小指を浮かせすぎては、庭球にはならない。そうかと言って、小指でしめつける像にするのもつまらない。手、特に、手首が居着くのである。おそらく、小指は中指程度に浮かせておくのが自然体であろう。『五輪書』に「居つくは死ぬる手也」とあるのだが、私にはまだこの一文と小指が不協和である。


『庭球四十八手』

小指は手首をかためる。指をしめればしめるほど、首はかたまる。庭球に於いては、所謂(いわゆる)ダブルサーキュラー、つまり、腕で円を描き、さらに手首でも円を描いてスイングする方が多いが、手首の柔軟性は小指の浮き具合によって決定される。色恋に於いても、首の柔らかさは肝要であろう。柔らかく触れれば受け入れられ、かたく握ればはじかれる。歓(かん)を交わしたとしても、柔らかくなければ和合 できたものではない。




 小指をしめる必要があるのは、重い速球をボレーするときぐらいのもので、打ち負けなぬ勁さは、手首からで生じない。『あだし野』に、


「初段でも五段でも、剣術にはそれほどのちがいはない。ここに剣の達人がいたとるする。彼は剣は強いが、しかし剣は出来ない。解るか」

「わかるような氣がするが」

「わかるような氣がするか。いいだろう。では、帰ろうか」


という親子のやりとりがある。私はわかるような氣さえしないので、永遠に帰してもらえなさそうである。私には勁さはわからぬが、強さは指の浮きと関係がある。心は躯を導く。印度舞踏が示すとおり、もし指が心を導いているのであるならば、誰が指を浮かせているのであろうか。無論、己ではない。




 小指。五大(ごだい)では「地」をあらわし、五蘊(ごうん)では「色」をあらわす である。




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