Lesson 79 『躯との対話』その2 | 『高堂巓古 Officia Blog』
Tue, December 21, 2010

Lesson 79 『躯との対話』その2

テーマ:軀(中級編)

前略、



 目はやはり眼とあらわしたい。白川静によると、音符は艮(こん)。艮には限(かぎる)の音がある。限は神が天にのぼりおりするときに使う梯(はしご)の前に、邪悪なものを追い払うための目を擱いたという意味なのだそうだ。つまり、呪力のある目を眼という。まなこは目の中心部で、眼力のおおもとである。また、眼力は視野の可動域のことをいう。人様の眼の まで視る方はやはり眼力が強い。動物と同様、人間も本能的には眼があった瞬間に波動の力関係というものが決定してくる。故に、眼の使い方 で、人は指導者にでも催眠術師にでもなれる。



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 眼の源には視神経があり、視神経は海馬と隣接している。海馬の役割は、記憶である。夢を視て寝ている者の眼をそっと拝借してめくると、眼は左右に激しく動いている。Rapid Eye Movement。REM睡眠と言われる所以(ゆえん)であるが、これは睡眠中に海馬が記憶の整理をしているためであろう。活動とは電氣をともなうものだから、海馬が働けば、自ずとそこから発生した電氣で視神経も動くということではなかろうか。私は電氣屋ではないから、詳しいことはわからない。あとは東京電力 にたずねていただきたい。



 では、眼力があるということが勁(つよ)さかというと、それも違うであろう。強さと勁さは異なる。強者というのは、遠近法のなかで泳ぐのが上手いということだけであって、勁くはない。例えば、勁い方というのは必要最低限の金以外はとらない姿勢 がある。私のまわりにいらっしゃる勁直な方々は、まず世間と同すことを避ける。このような話は、立原正秋が上手であるから、彼の全集を読んでいただきたいとおもう。


ペタしてね

↑世間に同した一手(笑)。




 なんの話であったか。そう、眼話であった。勁い眼というのは澄んでいる。強い眼というのは、澄むことなく辿りつけることができるが、勁い眼は澄んでなくてはならない。つまり、勁き人は眼に重きを擱いていないのである。青山二郎の言葉に、


要求は無法、愛情は無償。


というものがある。強い眼は能動的に要求するが、勁き眼はただただ眼に景色がはいるだけであろう。陰陽学的にいえば、利き眼 が陽といえるかもしれない。日本人は利き眼が右の方が大半で、ひとつひとつ論理的に積み重ねていく民族と言える。でも、その延長上には強い眼の使い方しかないのではないか。態(Voice)の視点でいえば、右眼は能動的であり、左眼は受動的である。右眼の出力をさげ、両眼を澄ませておくだけでよい。昔の方はこの感覚を、耳で視ると言った。



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 眼を澄ませば、躯の声が耳に届く。あとは躯に委ねるだけである。魂を躯に預ければ、任運自在、第三の眼がひらいてくるであろう。第三の眼 とは、松果体の一部である。水底にひそむナメクジウオ等はこの松果体から天を視る。視ると言っても、松果体は光をとりこむ器官であるから、光が眼に降り注いでいるだけ。哲学者デカルトの言葉をかりるなら、松果体は「魂が坐する処」 であるらしいので、魂で視ることになる。そして、魂はただ光を視つめている。



 私の好きな男のひとりに、浦泰輔という青年がいる。躯の話をすると、それをゲームの世界でたちまち活かしてしまうプログラマーである。先日、3D映画の話をしていた際、私は眼鏡なしで立体になる仕組みを彼にたずねていた。この話は面白いから、あなた方には教えない。しかしながら、キーワードを挙げれば、やはり左右と光である。青山二郎がおっしゃったとおり、魂は容(かたち)にあらわれるとおもう。私にとっての容とは、躯である。私の眼前には、青年の澄んだ眼が三つあった。





ご退屈さまでした。




々。






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