これは昨年2016年の3月に私が記した記事を再編集したものです。再掲させて頂きます。
極力事実に即したつもりですが、齟齬がありましたらお許しください。(但しJ-NSCやネトウヨによる嫌がらせは即刻削除します)
----- 私の履歴書 安倍晋三 -----
国民の皆さんは大した学歴もない私が、総理にまで上り詰めた事を羨んでいると思いますが、今でも私は自分の人生を時々後悔する事があります。
母方の祖父が元総理の岸信介、父親が元外務大臣の安倍晋太郎ですから、当然の事ながら私も将来を期待されて育ちました。
親のコネで成蹊大付属小学校に入れられ、家庭教師までつけられましたが勉強が嫌いで仕方がありませんでした。
小学校時代の家庭教師は、あの平沢勝栄さんでした。正直、怖い先生でした。
それでもお祖父様の様な有名な人にはなりたいとは思っており、辛抱して自分なりに頑張りました。
父の晋太郎は山口の選挙区に入り浸りで、普段はお祖父様と話す事のほうが多かったと思います。お祖父様の武勇伝を聴くのがいつも楽しみでした。
そして、お祖父様の事を母(洋子)に話すと母の機嫌が良くなるので、ますます私はお祖父様を頻繁
に訪ねるようになりました。
お祖父様は東京裁判でA級戦犯にさせられた事を悔しがっていました。よく「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言っていました。だから絶対に負けちゃいけないと、それを徹底的に教え込まれました。
でもお祖父様は偉いのです。A級戦犯になっても、死刑を免れて巣鴨刑務所から出所し、遂には総理大臣になったのですから、超人と呼んでも過言ではないでしょう。
お祖父様を助けてくれたのはCIAです。だからアメリカには大きな恩があるのです。
お祖父様は国民の反対を押し切って日米安保条約を締結しました。あの安保があったからこそ今の日本があるのです。確かに米軍に思いやり予算をつけ、住民を追いやって広大な基地を提供しましたが、それ以外は殆どタダ同然でアメリカに守ってもらったのですから、野党から文句を言われる筋合いはありません。
GHQに押し付けられた憲法で満足しているようでは、国としては半人前だ。日本が真の独立国になるためには独自の憲法が必要だ。
そんな事もお祖父から教えられました。
父、安倍晋太郎は滅多に家に帰ってこない癖に、帰ってくる度「お前は東大に行くのだぞ」と言うのが憂鬱の種でした。
結局、私の学力で東大は無理で、2歳年上の兄寛信と同じくそのままエスカレーターで成蹊大に進学しました。
お祖父様の岸信介は東大法学部、大叔父の佐藤栄作(元総理大臣)、父方の祖父の安倍寛(元衆議院議員)、父の安倍晋太郎(元外務大臣)も全員が東大法学部出身でした。
何故こんな家系で私だけ成蹊大しか卒業できなかったのか、皆さんは疑問に思われるでしょうが、私は強制されると反発したくなる性格なので、東大、東大と言われるとますます勉強したくなくなったのです。
その点兄は優秀で、成蹊大から東大の大学院に進学しています。そんな兄は三菱商事に入社し、今は子会社の社長に就いています。
岸家に養子に行った5歳年下の信夫も慶應の幼稚舎からエスカレーターで慶應大学に進み、衆議院議員になっています。
この2人に挟まれて、自分だけ一流大学を出られなかったのは痛恨の極みです。
そんな私でも大学時代は部活(アーチュリー)や合コン、麻雀やドライブに明け暮れ、それなりに青春を謳歌しました。
父に買ってもらった真っ赤なアルファロメオは私の自慢でした。
大学3年にもなると流石に父やお祖父様も心配し、私に国家公務員上級試験を受けて官僚になるよう勧めてきましたが、私の学力では到底無理です。
真剣に勉強しなかった事を後悔し、随分辛い思いをしました。
そんな私を見兼ねた父は、私を政治家にするために箔をつけさせようという親心からか、アメリカ留学を勧めました。
私なりに悩みましたが、とりあえず留学の道を選ぶことにしたのでした。
<PART2>
私は1977年3月に成蹊大学法学部政治学科を卒業すると、父が勧める留学のために渡米しました。
先ずは英語の勉強をしなければなりません。
最初にカリフォルニア州ヘイワードの英語学校に入学しましたが、日本人だらけで勉強に障害があると判断した私は、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通いました。
翌年1978年9月、政治学を専攻する予定で南カルフォルニア大学に入学しましたが挫折してしまいました。
政治学を専攻できないまま、語学コースを含む6コースを取得しただけで、実質的には半年で退学してしまったのです。留学というのは恥ずかしいような経験でした。
ちなみに今話題の加計孝太郎氏は彼がアメリカカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学されていた時に出会い、それ以来の付き合いとなっています。
経歴詐称とのご指摘も頂いておりますが、私はこの事を偽るつもりはありませんでした。
HP作成を事務所に任せており、不確実なまま私の経歴に米国留学と載ってしまっていたようです。今は削除しています。
翌年1979年4月に帰国すると、私を待っていたのは「就職」という現実でした。
父晋太郎は私を後継者にするつもりでおり、父の選挙地盤固めのために地元山口の大企業に就職させたかったようです。
私の就職に関してはお祖父様の秘書をしていた方が奔走してくれました。
岸信介の孫、飛ぶ鳥を落とす勢いの安部晋太郎の息子という事もあり、引く手数多だったそうです。
結局、お祖父様の希望もあって私は神戸製鋼に入社しました。
ただタイミングが悪かったようで、入社試験も入社式も終わっており、国内には配属場所がなかったことから、会社から「英語が話せるならニューヨーク事務所に1年ほど行ってほしい」と言われ、やっと日本に戻ったと思ったら、皮肉にもとんぼ返りでアメリカに戻る事となってしまいました。
翌1980年に日本に戻してもらうと、私はその年の新入社員と一緒に溶鉱炉の現場を経験させられることになりました。
加古川の製鉄所に勤務した頃は寮に入り、寮仲間と麻雀に興じたり、ドライブに行ったり、楽しい時代でした。
私は酒をほとんど飲まないので、仲間と飲みに行くと運転手役はいつも私でした。
その後東京本社の輸出部に転勤となり、仕事の楽しさが分かり始めた1982年の秋頃のこと、外相に就任した父晋太郎からいきなり「会社を辞めて、明日からおれの秘書になれ」と言われたのです。
私は会社生活を続けたかったのですが、父は神戸製鋼の社長にまで根回しをしており、逆に上司から退社スケジュールまで示される始末でした。
私は政治家になるのは必然だと考えていましたから、秘書官になる事に抵抗は無かったのですが、突然の事で会社に迷惑を掛けるのが辛く、そんな強引で我儘な父が嫌で仕方ありませんでした。
結局2週間程ゴタゴタしてしまい、最後は背中を押してくれた課長の前で人目をはばからず号泣してしまいました。
父晋太郎の秘書官時代は秘書官の仕事をしていたというよりは、政財界に顔を売るため父に付き添って挨拶回り、宴席や冠婚葬祭への出席が主な役割でした。
暇な時間も多く、事務所では勉強の傍らよくTVゲームに興じていました。
ただ、いつになれば政治家になれるのか、いつまで秘書官を続けるのか、常に気掛かりでした。
お祖父様のような総理になる、その夢はいつになったら実現するのだろう?不安が付き纏いました。
そんなある日、縁談話が持ち上がりました。相手は今の妻、昭恵です。
父は常々、「男は所帯を構えてこそ一人前だ。お前もそろそろ嫁をもらわんとなあ?」と言っており、縁談は意外な事ではありませんでした。
ただ、親が決めるのではなく、自分で相手を見つけたい、決めたいという思いはありました。
昭恵は当時森永製菓社長だった松崎昭雄の長女で、電通社員をしていました。
電通との繋がりは、今は切っても切れない関係になっています。やはり政略結婚だったのでしょうか。
1987年6月、挙式は新高輪プリンスホテルで、媒酌人は福田赳夫夫妻でした。派手な披露宴でマスコミでも話題になりました。
昭恵は奔放な女性で、歯に衣を着せず私に辛辣な意見を言ったり、酒豪で男勝りな面もありましたが、逆に夫婦というよりは友達のような感覚で暮してきました。
子宝に恵まれず、それも悩みの種でした。不妊治療を試みたり、養子縁組を考えたものの実現には至っていません。
第三者から「仮面の夫婦」と揶揄された事もありますが、政治家である以上致し方ない部分はあります。
昭恵もよく辛抱してくれていると思いますが、夫婦の絆が深まらなかったのは、子供に恵まれなかった事も大きいと思っています。
また母洋子との関係は良好とはいえず、私は昭恵の傍が息苦しくなると、母の元に行っていました。
その年、参議院議員・江島淳さんが亡くなられたので、補欠選挙に立候補するつもりでしたが、宇部市長の二木秀夫さんが出馬を表明されたため、父晋太郎から出馬を断念するよう説得されて立候補を見送りました。
巷には安部家朝鮮人説というのがあるそうですが、確かに父晋太郎は「おれは朝鮮人」だとよく言っていました。
父によると安倍家の起源は10世紀くらいまで朝鮮半島北で中国大陸にかけて存在した渤海(パルヘ)国に始まったという事でしたが、その真偽はよく分かりません。
ただ、岸家、安部家ともに朝鮮との関係は深かったと思っています。
お祖父様がA級戦犯仲間の児玉誉士夫さん、笹川良一さんと協力して、統一教会と『国際勝共連合』を立ち上げた事はよく知られていますが、その頃から統一教会とも交流ができました。
朝鮮総連系との繋がりが深いパチンコ業界からも安部家は絶大な支援を受けて参りました。
このように朝鮮との関係が深い事から私を在日と言う人もいますが、私は純粋の日本人です。
しかし、朝鮮の方々から受けた恩を忘れてはなりません。
そんな父の教えもあって、今は統一教会に加え、創価学会の方々とも良い関係を築いています。
1991年に総裁候補と目されていた父晋太郎が急死しました。
1993年に私は父の地盤を受け継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区から出馬し初当選しました。
当選後はかつて父晋太郎が会長を務めた清和政策研究会に所属して活動を行いました。
1997年には自民党青年局長に就任させて頂き、1998年には政策集団NAISの会を結成いたしました。
NAISとは根本匠氏、安部晋三、石原伸晃氏、塩崎恭久氏の頭文字を取ったものです。この仲間たちとの関係は大切にしています。
現安部政権でも石原氏、塩崎氏には閣僚としてご活躍頂いています。
私は世襲議員とのご指摘、ご批判も多く頂きましたが、三バン(ジバン、カバン〔資金〕、カンバン)は議員にとって必要不可欠な条件です。
親が築いた三バンをみすみす捨てる手はありません。
しかも、私のように政治家としての大志、能力が備わっていなければ、いくら世襲でも役職に就くことは不可能です。
私は世襲である事をむしろ誇りに思っています。
私の大志とは、お祖父様の岸信介が夢見て叶わなかった憲法改正を成し遂げる事です。
日本が戦争で負け、お祖父様は戦争犯罪人として裁かれ、大日本帝国憲法を破棄させられ、屈辱を味わいました。
お祖父様の遺志に従って、私の在任中に自主憲法を制定する事、それが尊敬するお祖父様の屈辱を晴らすとともに、最高の弔いになるのだと思っています。
2000年、私は派閥領袖の森喜朗首相が組閣した第2次森内閣で、小泉純一郎さんの推薦を受け、政務担当の内閣官房副長官に就任しました。
2002年には小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では、小泉首相に「安易な妥協をするべきではない」と再三進言しました。
また拉致被害者5人の帰国を実現させた後、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも反対し、対北朝鮮強硬派の方たちからは多くの支持を頂きました。
拉致被害者の家族会の方から、「安部晋三は拉致問題を政治利用した」という非難も受けましたが、それは事実誤認です。私を貶める謀略です。
私が誠心誠意、拉致被害者の帰国を願って精力的に活動してきた事は皆さんご存知の通りです。
2003年9月、私は小泉首相によって自民党幹事長に抜擢されました。
その時私はまだ49歳でした。
首相と同じ派閥から幹事長は出さないという暗黙のルールを超えたサプライズ人事で、しかも大臣経験の無い若手議員が幹事長に就任するというのも前代未聞の出来事だったようです。
私は勝ち馬に乗ったと感じました。
2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣では内閣官房長官として初入閣しました。この時、私はポスト小泉の最有力候補と目されていたのです。
<PART3>
そして忘れる事の出来ない2006年9月の総裁選、私は麻生太郎氏、谷垣禎一氏を大差で破って、自由民主党総裁となり、9月26日の臨時国会で戦後最年少、戦後生まれでは初めての内閣総理大臣に就任しました。
この瞬間、私はお祖父様の夢の実現に大きく近づいたと思いました。
私は国のトップです。最高責任者です。日本で一番偉い人になったのです。
喜びで天まで舞い上がりそうでした。
お祖父様が存命だったら、孫の総理就任をどれほど喜んでくれた事でしょう。
私はお祖父様の墓参で報告を行いました。
総理に就任すると、私は小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示すとともに、
「美しい国」というテーマの下に「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度(教育に競争原理を導入する)」「ホワイトカラーエグゼンプション(残業代ゼロ)」などを掲げ、改革に着手しました。
このカタカナ交じりの方針は響きがよく、「さすが戦後世代の総理だ」と言ってくれる人も少なくありませんでしたが、あくまでも私の目標は憲法改正でした。
それらの施策は改憲に向けた序章に過ぎなかったのです。
私は組閣にあたり、総裁選で私を支持してくれた方や気の合う仲間を積極的に登用しました。
「お友達内閣」と揶揄する人もいましたが、派閥均衡に気を取られ、動かない内閣を作るよりは、多少の軋轢があってもアグレッシブな内閣を作りたいと思ったのです。
そして、同年の12月には念願だった教育基本法を改正し、防衛庁の防衛省昇格を実現させました。
私の前途は洋々、順風満帆の出帆と思っていましたが、予想だにしない落とし穴が待っていました。
本間正明税制会長が公務員宿舎で愛人と同棲している事が発覚して辞任、
行革担当相佐田玄一郎氏が、事実上存在しない事務所の経費架空計上(7,800万円)が判明し辞任、
この後も閣内で次々とスキャンダルが続きました。
文部科学大臣伊吹文明氏の政治資金収支報告書不正記載、
厚生労働大臣柳澤伯夫氏の「女は子供を産む機械」発言、
松岡農水大臣が資金管理団体の不正計上批判を受けて自殺、
久間防衛大臣(当時)の「原爆の投下はしょうがない」発言、
農林水産大臣赤城徳彦氏の政治団体による9,000万円の不正計上等
があり、就任当初70%前後だった支持率は一気に30%前後まで落ち込みました。
寄ってたかって、閣僚たちは私の足を引っ張ってくれました。
親しい人たちばかりだったので、身体検査が甘かったのでしょう。
結果、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では、連立を組む自民・公明を併せても過半数を獲得できず、第1党から転落してしまいました。
私は政治家になって初めて屈辱感を味わいました。そして同時に天国のお祖父様に対する申しわけなさで一杯でした。
私は9月の臨時国会で一旦は所信表明演説を行いましたが、その2日後に辞意を表明し、総理の座を降りる事にしました。
実はその前から腹痛、下痢、血便が続いており、医師から潰瘍性大腸炎の診断を下されていました。昭恵からも総理の職を辞するよう勧められており、悩んだ結果の決断でした。
今にして思えば、メディアのコントロールを徹底しておけば、ここまで支持率が落ちる事も無く、選挙で負ける事もなかったのです。この時、私はしっかり学びました。ネットやメディアの重要性を。
その後、福田内閣、麻生内閣と続きますが、参議院で少数与党に転落した結果、ねじれ国会となってしまい、自公連立政権は結果を残せないままダッジロールを続ける事となったのです。
その責任は、2007年の参議院選挙で惨敗という結果を招いた私にありました。
これまでは自叙伝という事で、かなり自制しながら書いてきましたが、「嘘はいけない」、「本音で書け」という声を頂きました。
本音を書くのは勇気が要りますが、真実の私を知ってもらえば、人間安倍晋三に対する理解が深まり、逆に支持も高まるのではないかという意見もあります。
そこで、今回からは本音を書きます。失望される方もいらっしゃるかもしれませんが、これが私です。
2008年に発足した麻生内閣は残された衆議院任期が1年しかなく、選挙管理内閣同然という厳しい状況にありましたが、率直に申し上げて麻生さんの自滅でした。
麻生さんには申しわけありませんが、いくら経済が強くても、漢字が読めないようでは国民から支持されません。
事務方も答弁書に一々フリガナを振らされ、ボヤいていました。
麻生さんは答弁がダラダラして長すぎます。適当にはぐらかせば良いものを、口を歪めて、話まで歪めてしまわれますから、記者泣かせ、国民泣かせで支持率が下がってしまったのでしょう。
また、閣僚の不祥事も少なからずありました。
私の盟友で財務大臣中川昭一さんの酩酊会見、内閣官房副長官鴻池祥肇の女性問題、特命担当大臣(沖縄及び北方・防災担当)林幹雄の金銭疑惑、農林水産副大臣近藤基彦の建設会社からの1880万円給与授受問題等があり、自民党政権の末期症状とマスコミからも叩かれました。
麻生さんの求心力はみるみる失せ、党内からも公然と麻生降ろしの声が上がりました。
その結果、衆議院選挙で歴史的大敗を期し、あの寄せ集めで、ポリシーも節操も無いような民主党に政権を奪われる羽目になりました。
民主党は「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズで国民の期待を集めましたが、理想論だけでは経済は成立しません。リーマンショックから立ち直れていない日本経済にとって公共事業投資は景気刺激策として欠かせません。
そんな当たり前の事を知らない民主党に経済は任せられません。
また事業仕分けと称して、民主党は官僚たちに真っ向から喧嘩を売りました。愚かな連中でした。
政権運営には官僚の協力が欠かせません。
官僚たちにもウマい汁を吸わせなければ、彼らは仕事をしません。天下りの何がいけないのですか?国家に貢献すれば、彼らの晩年を保障するのは当然の事です。
そもそも、国民主権という考え自体が間違っているのです。国家があっての国民です。天皇陛下を中心とする立憲君主制こそ日本が選択すべき道です。
また、民主党政権は対米従属からの脱却を唱え、対等な日米関係を主張しましたが、滑稽な話です。
アメリカあっての日本です。日本はアメリカに守ってもらったお陰で高度経済成長を成し遂げられたのです。
安保ただ乗りに助けられたのです。アメリカに対する恩義を忘れ、対等な関係など主張すれば、アメリカの怒りを買うのは当然です。
小沢一郎、鳩山由紀夫らは元々自民党にいた人たちです。
アメリカに逆らった歴代首相や閣僚の末路を知らないはずがありません。
CIAの怖さを知らないはずがありません。
私は民主党政権は長くないと思いました。国民は熱しやすく冷めやすい。期待が大きければ、その分、失望も大きくなる。
ましてアメリカに逆らい、官僚を蔑ろにすれば政権運営は行き詰ります。
そこに我々の勝機があると考えました。
先ずは私が自民党総裁に復帰する事。そして民主党の弱みを見つけ、そこを徹底的に突く事。
ネットやメディアを活用し、民主党攻撃を強める事。
そうすれば我々は3年で政権に復帰できると考えました。
鳩山由紀夫は母親からの献金疑惑を追及して辞任に追い込みました。
菅直人には311東日本大震災時の福島原発事故の責任を取らせました。
一部、私や甘利大臣の責任を追及する新聞社もありましたが、所詮商業新聞はスポンサーがいなければ潰れるだけです。
幾ら記者レベルが騒いでも、幹部を抑えてしまえば好き勝手はできません。明らかに私に敵対心を燃やす朝日、そして毎日、東京新聞もガス抜き程度の記事しか書けません。
野田さんは異色の総理でした。基本的スタンスは私と変わりません。私と同じく日本会議のメンバーです。
彼が民主党総裁になれたのは、親米保守だったからです。鳩山由紀夫で反米に舵を切り、アメリカを怒らせましたが、菅直人で少し舵を戻しました。しかし、やはり我が国の外交基調は親米であるべきです。
そうした意味で野田政権の誕生は好ましい事でした。財務省主導で誕生した野田政権とは自公民大連立の話もありました。だからこそ野田政権は消費増税、TPP推進に舵を切ったのです。
しかし私は民主党を俄かに信じる事はできませんでした。
野田さんのグループとは連立できますが、左派の連中とは絶対に組めません。自民党内には大連立を支持する考えもありましたが、私は野田氏ら右派としか組めないと抵抗しました。
結果、大連立は実現せず、野田さんの自爆解散で民主党政権は幕を閉じる事になりました。
我々の揺さぶりは功を奏しました。
自民党ネットサポーターズクラブを立ち上げ、引きこもりのネトウヨ諸君を中心に数万人規模の組織で民主党攻撃を行いました。
SNSやTwitterを活用し、反自民の発言を封じ込め、意図的に民主党を貶める発言を拡散させました。これでみるみる内に民主嫌いが増えました。
また電通を司令塔としてマスコミ各社との連携を深め、メディアを徹底活用しました。
創価学会、統一教会の全面協力を得て票集めを行いました。そして最終兵器はムサシです。競り合う選挙区ではムサシの開票マシンを利用しました。
これ以上ここでは書けませんが、ムサシは父安部晋太郎から引き継いだ遺産です。
こうした我々は2012年の総選挙で歴史的な勝利を獲得して政権に返り咲きました。
僅か3年で盤石と言われた民主党政権を追い詰めた私の手腕は高く評価され、党内でも反安部の動きは急速に鳴りを潜め、安部体制を絶対的なものにしました。
<PART4>
その後の私の活躍は皆さんご承知の通りです。
自民党政権が50年かけても実現できなかった事を僅か3年で実現させました。
地球儀俯瞰外交と称して世界数十か国を歴訪し、延べで数十兆円の経済援助を行い、日本の存在感を高めました。
国家安全保障会議(日本版NSC)を設置し、安全保障に関わる政策決定と省庁間の協力関係を築き、日本の安保政策推進に大きく寄与しました。
更に特定秘密保護法を制定し、安保に関わる機密保全を確固たるものとしました。戦時中の軍機保護法に酷似した危険な法制だとの厳しい批判もありましたが、国家あっての臣民であるという我々の基本的考え方に一定の理解を示している法学者も少なからずいます。
また集団的自衛権行使を法的に担保する事に成功しました。
事務方が作った、「隣家の家事の火消し」は例えが悪く、女子高生に論破される等散々でしたが、安保法制を成立させ、尊敬する米国ネオコンの重鎮アーミテージ閣下に高く評価頂けた事で私は溜飲を下げる事ができました。
これで我々は自衛隊を地球の津々浦々まで派遣する事が可能となりました。
確かに自衛隊員の生命を危険に晒す可能性は否定しませんが、日本が国際社会の一員として責任を果たすという崇高な理念は必ずや国民の支持を得るに違いありません。
アメリカから「日本は拡張を続ける中国の防波堤になれ」という指令を頂いています。
もし中国が尖閣の防衛ラインを突破するような事態になれば、我々は徹底的な反撃を試みます。座して死を待つような無責任な対応はしません。
そして我々は「この美しい国」を守るため、憲法を改正しなければなりません。
安保法制に反対するような勢力をこのまま見逃すわけには参りません。
国民は各種権利を主張する以上、義務を生じます。
残念ながら現憲法には国防の義務がありません。しかし国民は国を守る義務があります。
日本という国は一つにまとまらなければなりません。そのためには天皇陛下を国家元首として位置づけ、自衛隊を国防軍に改組し、国民には徴兵義務を負わせる必要があると考えます。
党内には私のこの考えを否定する者もいますが、そもそも自民党の党是は憲法改正です。
改憲に反対する連中は党から出ていけばよいのです。いや、改憲に反対する連中は公認しません。
大阪維新の橋下氏は改憲という点で私と考え方を共有しています。この大阪維新を自公連立政権に加えるという事も視野に入れておく必要があります。
憲法改正はお祖父様、岸信介の悲願であり、遺言です。私は石にかじりついても憲法を改正します。
しかし、その憲法改正までの道のりは長く、平たんではありません。改憲反対の声は根強く、相当な抵抗が予想されます。
そこで、麻生副総理がヒントを下さった「ナチスに学べ」を活用するつもりです。
ナチスはドイツのワイマール憲法を覆す、いわゆる全権委任法を活用して実質的な改憲を実現し、ヒットラー政権の基盤を強固なものにしました。
地震災害、大規模紛争等への備えとして緊急事態条項を現憲法に追加するのです。
これが実現すれば、例えば311のような人口地震を利用して、我々は絶対的な権力を得ることが可能となるのです。
もちろん改憲にはチャレンジしますが、緊急事態条項という代替案を用意しておけば盤石です。
アベノミクスは正直、思うような成果を出せていません。中国経済の減速や石油価格の暴落等、外的要因に足を引っ張られています。
しかし、株価2万円を達成させたのはアベノミクスの成果です。大企業を中心に企業業績も回復したではありませんか。
賃上げに応じないのは各企業の問題であり、私の責任ではありません。女性の社会進出も進みました。派遣労働者の増加は私の責任ではありません。労働力の流動化を望んだ各企業の責任です。
私は総理です。この国の責任者です。私が決め、私が実行する。
それは当然の事ではありませんか。自民党は国民の支持を得て、絶対多数を得たのです。多数決に従うのが民主主義というものです。
私は潰瘍性大腸炎を患い、いつまで総理の職を続けられるか分かりません。しかし、私の後継者の最有力候補として稲田朋美がいます。
万一私に何かあっても、稲田なら必ず私の遺志を継いでくれるものと信じています。
この夏の参議院選挙は、私の在任中に憲法改正が実現できるか否かを決める重要な選挙となります。
どんな手を使っても、石にかじりついてでも選挙に勝たなくてはなりません。
バラマキと言われようが、選挙買収と非難されようが、不正選挙と言われようが、崇高な目的のためなら手段は全て正当化されます。
私はお祖父様、岸信介が念願した大日本帝国の復活を必ず成し遂げます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
引き続き、安倍政権への絶大なるご支持をお願いいたします。
「美しい国」日本を守るために。
<完>