・正常と異常、適応と不適応

「正常-異常」は、ドイツ流の精神医学に於いて主に用いられた用語である。「異常」於いて、その原因は内にあり、遺伝的要因がその個人の性格形成の問題や精神障害の主要因となるという考えの元、異常な行動・こころの動きをする人は正常な人とは質的に異なると考えた。「正常」な人と「異常」な人とは同じ生き物ではあるが別のカテゴリーにあり、質的に異なるものである(正常である人は異常にはならない)というニュアンスが含まれている。

一方、「適応-不適応」はアメリカ流の精神医学会で多く用いられ、ドイツ流の、人間の精神疾患の主要要因が遺伝的なものであるという考え方に対して、その人を取り巻く環境によって強い影響を受けることがもっとも主要な要因(環境要因)であるとした。「適応-不適応」は、質的に連続的であり、誰しもそうなる可能性があるというものだ。

しかし、何を以って「異常」は「異常である」といわれるのだろうか。

生まれてから1度も病院に行ったことのない人を「異常である」とは言わない、IQ(知能指数)が普通より高い人はむしろ「正常」で喜ばしいことであろう。また、出勤時の服装が多少奇抜であっても「異常だ」とは言われない。なぜこれらは異常であると言われないのか。それは、ずっと健康であったり知能が高かったりということは社会的に望ましく、服装に関しても我々の社会的な許容範囲の範囲内であるからだ。逆に、他者のことなど考えず被害妄想に囚われ自分本位に生活する人、人とは違う性癖のある人物などは「あの人は少しおかしい」と言われどこか違うもの=「異常な人」として見られやすい。ある行為が、その人が所属する社会においてその常識や制度・法律のある程度の許容度を超えた時、「異常である」とみなされるのである。

この様に、「正常」と「異常」を区別する方法を「価値的基準」という。

前述した、IQや、芸術などの創造に関することについては、世間一般の平均値というものはなく、またそれによって「正常」か「異常」かを決めることは出来ない。(IQに関してはIQ100を基準し、極端に低い群は知的障害いわれるが、高い群を異常とは言わない)。

これは、あること・ある行為が価値的に望ましいかどうかという点で「正常」か「異常」かを区別する方法である。この点に関して、服装にしてみても「正常」であるか「異常」であるか区別することが可能である。それ故、その社会、時代やそれに適応している人々の固定概念や価値観によって正常と異常の境界線(「基準」や「平均値」、「普通」といわれるもの)は異なり、客観的な不変の境界線というものは存在しない

身体的な「異常」は病気と言える。これに関しては価値観や常識では「正常」と「異常」の区別をつけることは出来ない。よって、身体的な面については統計的な基準値を定め、その基準値を中心に一定の範囲内の数値を「正常」とする「統計的基準」という方法を用いる。しかし、「異常な状態(病気)」に近い数値も「正常」とみなされるため、ここでもやはり正常と異常の境界線を引くことは難しく、便宜的に平均値±2標準偏差の範囲(約95%)を1つの目安とし、平常であるか異常であるか判断する場合が多い。

また、精神病理という場合においては社会適応ということが比較的妥当な価値基準となっている。

また、「適応-不適応」とは、個人と環境との相互調和的関係がどのような状態にあるかを指す概念である。つまり、個人の行動とそれを支える心理的諸機能が、置かされた環境に対して適応的である場合は「正常」であり、そうでない場合が「不適応」であると言えるだろう。

人は学校や家庭、職場など複数の団体に属しているが、その全てに適応して生活することは難しくその内のどれかで価値的基準による「正常」であっても、他方では「異常」というレッテルを貼られる可能性があり、それらは表裏一体なのだということを感じた。また、「異常」であることが長期にわたるとその団体に対して「不適応」が起こり様々な心身症を引き起こす原因となるのではないかと思った。また、統合失調症や躁うつ病と言われる精神条理的な「異常」が治療や援助の対象になっているのだと改めて感じた。

参考文献

http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/2002/ijou.html