精霊流しが8月15日に終わった。

今年も地元に行けなかったが親戚が写真を送ってきてくれた。

さだまさしはその歌の中で、さすがに長崎湾だからか精霊流しが「華やかに始まる」と書いたが私の小さな村のそれは逆にしめやかにというほうがあたっている。

元来、盆に戻ってきた亡き家族の霊を西方に送るものだから、提灯の光は華やかに見えても送る人の心はそれとは違うものである。

 

この夏が始まったころ、劇作家岡部耕大の舞台「精霊流し」があると知った。

前回見てもう10年以上たっている。次はいつ見れるかと心のどこかで待っていたのでぜひにとチケットを取った。

前回見たときのメモを見てみた。

「精霊流しという本は詩集である。ただそれは、昭和を、そして親子の情・男女の仲・女の一生を、哀しくもどこか明るく、明るくもやはり哀しく、てらわずに地に足をつけてていねいに表した珠玉の詩集である。」と書いている。

そう書いた時の気持ちもしっかりと覚えている。

片や戦争未亡人のおばば、もう一人は都会に出て妻子ある男と不倫の末逃げるようにして田舎に帰ってきた若い女の、ざぶとん二つだけの語り芝居。

8月15日の精霊流しの夜の、絶望で地元の海に身を投げかけた女の語りに対し、時に理不尽にも会い、そのままやむを得ず流れに身を任せ、その一方で忘れ得ぬ思いも心に秘め、、、そうやってこの年まで生を繋いできたおばばのことば。

「生きていようよ。」などというあいまいな投げかけはせず、「女はなかなか死ねないんだ。」と言う。

さらっとした表現は全くない。むしろすべては「骨太な」表現で、まるで地元に根付いて動じない大木から発せられているかのような言葉。

そうして岡部はおばばに、絶望の女に向かって無常を説かせ、そして最後にささやかに再生を誘わせてみる。

本舞台として設定されている場所のまさに対岸にある私の村にあっても全く違和感のないそのやりとりに、言葉にできない感情が渦巻く。

ここまで深層をえぐるように言葉を紡げる岡部の才に今更ながらに感動する。本人まだ35歳の時の作品である。

 

一方のさだまさしが精霊流しをリリースした時は弱冠22歳。

出だしは「華やかに」であったが最後は「人ごみの中を縫う様に静かに時間が通り過ぎます。あなたと私の人生をかばうみたいに。」で終わっている。

あの物悲しいメロディーと共に、わびさびの世界を実はしっかり歌っている。

20代のさだが紡いだ歌は、メロディーはもとよりその歌詞の感性に天才的なものを感じた。

その頃の歌には、今聞いても思わず涙を誘われるものも少なくない。

同じように長渕剛の場合も、博多を中心に歌っていた最初のころのLPの感性のみずみずしさには何とも言えないものがあった。

さだは関白宣言で超メジャーになったあたりから、長渕はTVデビューを果たし始めたころから、歌を紡ぐ方向感のようなものがなんとなく変わっていったような気がしている。

悪いことではない。むしろ新たな進化でもあるといえよう。

ただ、出だしのころのみずみずしい感性が今の年齢になるとやけに新鮮で、大切にしたくなるのである。

 

さて、8月15日の精霊流し。

村の湾の小船は次々に沖へ流されていき、次第に提灯の火も少なくなっていく。

そしてついには、静寂の中で星の光だけが残る。

そこから秋が始まる。

 

ただ、秋の本格的訪れの前に夏の名残を歌うのが荒井由実の「晩夏」である。

楽しかった夏(休み)が終わる寂しさをそのメロディーと共に見事に歌っている。

彼女の歌には、「もののあはれ」が内在しているように思う。

またそれは、デビューのころからずっと通底している。

そこが彼女の、他の一時代を築いた歌手との大きな違いなのかもしれない。

 

通底と言えば、この夏、つかこうへいの「熱海殺人事件」がその弟子のひとり岡村俊一演出にて、作品発表後50周年記念として公演された。

毎年のようにどこかの劇団が公演しているが、2,3年に1回見に行っている。つかの遺伝子を見に行っているようなものなので、その弟子たちの演出、かつ、できたらつかの下で一度は演ったことのある役者がいる時に。

果たして、遺伝子は生きていた。が、役者には物足りなさがなくもない。

かつてはプラチナチケットだったのに、週末にも関わらず後ろ1/3は空いていた。

でも時代も変わる。そもそもつかが亡くなって13年になる。

知名度も変わるしまた同じものができるはずもない。それはそれでいい。

ただ私は、つか作品、特に熱海に見える、乱暴で放送禁止的でさえあるような言葉の、暴力的ともいえるそのやり取りの中で清冽に流れている地下水を見に行っているのである。

それはすなわち圧倒的な愛であり、それがつか作品に通底しているものである。

彼の前にも後にも、そういう劇作家はいない、と思う。

また時機が来たら見に行こう、聖地、紀伊國屋ホールに。

混沌の中での人間の可能性を探りに。