ボチボチと亀の歩みのマイブログですが、今回で80投稿になりました~
皆さま、本当にありがとうございます!
そして…
あけましておめでとうございます!感謝感謝大感謝!2025年もどうぞよろしくお願いいたします。
2024年の最後の投稿がシリーズ『毒親』となったわけで、これが母の逝去から丸4年経って行きついた私なりの見解であり答えなのですが、単に途中経過でもあり、まだまだ高い確率でアスペルガー症候群とともに生きていると思われる父と向き合い、最後まで自分自身を成長させるべく、父の人生に寄り添っていこうと思っています。
「親が親の仇やったからね~」とは、私の人生の師匠の一人が言った言葉です(笑)
まさに父との4年間は、一人娘として親孝行をしているふりをしながら、母の復讐をしている気分でしたから...ほんまにひどいよね~~~
まさにこの国の80代、90代にありがちな夫婦
戦前から戦中生まれで、夫は日本の復興のために外で必死に働き、なんなら家族が犠牲になっても、そこには国や社会のためという正当性があるので、何もおかしくはない。そして外ではいい顔をして我慢をしている分、家族にストレスをぶつけても平気な世代。わしが食わせてやってるわけですからね。今で言うパワハラやモラハラ、DVなんてまぁまぁ普通
妻は主婦なので自分でお金を稼いではおらず、家事、育児が中心の生活。「夫に仕えている」という感覚があり、常に夫が外で気持ちよく働けるよう配慮している。子どもに何か問題が起こった時は「お前がしっかりしていないからだ」と夫から罵倒される。教育は基本、妻の担当
妻(母)は耐えるもの、だからこそ強いというような価値観が横行している世代。女は男より一歩下がって…的な男尊女卑思考
これらは父にとっては普通のこと、女性は”おなご”呼ばわりでしたからね。そしてもう一つの外せない要因は父と母の家庭環境の差です。父は叩き上げ、母は裕福で教養もある家庭で育った才能溢れる女性であったため、その我慢は半端なかったと想像できます。多分ね、これはあくまでも私の想像ですが、母は父に食わせてもらいながら、父のことを見下していたと思うんです。なんだか切ないですけどね
結婚してからは、二人で世の中に貢献する、社会が良くなるために尽力する、人々が幸せに生きられるようできることをする…という信念が一致していたのでともに進むことができた。しかし、自分達も社会的立場をある程度確立し、日本も豊かになったところで、実は趣味もセンスも、好きなものも共有できない父と母には、仕事以外で一緒に楽しめることがなかった。
そして、これまで二人で必死にがんばっている時には見えなかったことが、母には見えるようになってしまった。母の不満は、歳を重ねてから急に大きくなったと私は考えています。ある意味、生活にも心にもゆとりと余裕ができたことが原因60代に入った頃からでしょうか、母はあまり父と話さなくなっていきました。「パパと長く話すと、いつも嫌な気持ちになってしまうからね
」と言ってね。
母がよくぼやいていたのは、
「お行儀が悪い」
「口が悪い」
「家族に対する思いやりがない」
「女性を差別している」
「ちょっとかじって知った気になる」
「一緒にいると恥ずかしい」
というようなこと。
だって中学校を卒業してからの父は、家族の大黒柱として仕事しかしてこなかった。習い事をするとか、芸事を楽しむとか、常識やマナーを学ぶとか、そんなことできる状況や環境ではなかったわけですから。
今になって思うのは、母はそこを俯瞰することができなかったことで、父に対して嫌悪感を持ち、軽蔑するようになったのだろうと…でもそこには期待もあったから腹も立ったのでしょうね。しかし不器用な父は、聡明な母に理論で負けそうになるといつも「誰のお陰でご飯食べられとるんや
誰が稼いでるんや
」と口汚く言うわけです。それもアカンかった
だからね、今のところ私の結論は、どっちもアカンかったということ
随分な成長でしょだって4年間がんばりましたもん。なんとか父の思いに寄り添えるようにとね、いじめながらですけど…(笑)
残念ながら、いまだ父のことを好きにはなれない。ホンマにひどいことを言われ、ひどい扱いをされてきましたから。父に褒められたことは一度もありません。そして何かで成果をあげたことを喜んで報告した時には、いつもこう言われました。
「調子に乗るな謙虚になれ。」
褒めないどころか、認めもせんかったな
この言葉の呪縛がね、なかなか解けないのですわ。
今も私はこの自動思考と戦い続けています
でもここから学んだことが、私の子育てに生きているんです。『変毒為薬』できている私は幸せ者
2025年は、もっともっと自動思考を外していきます。そしてさらに生きやすく、自由で軽やかで悠々と進んでいきたい
誓いも新たに「できる・やれる・すべてうまくいっている・全部私の思い通り」の呪文を唱えながら、いつか父を許したいと思えるまでになりました