先日来Discovery Channelで放映していた「戦闘艦大全」の録画を見ていたのですが、その中に「水雷艇」と題した回がありました。「水雷艇」という単語を聞いてまず頭に浮かんだのは「友鶴」という名でした。この「友鶴」事件の名前にもなり、その手の趣味の方には非常にメジャーな艇ですが、大東亜戦争中の状況については記憶に残っていなかったことから調べてみることにしました。
水雷艇「友鶴」は「千鳥」型水雷艇の3番艇として建造されます。この「千鳥」型水雷艇は、ロンドン海軍軍縮条約により補助艦艇の建造制限がなされる中、帝国海軍は基準排水量600トン以下の艦艇は対象外であることに目を付け、小型駆逐艦として建造を計画します。この時明確に「駆逐艦」と区別するため、建造が途絶えて久しかった「水雷艇」という類別を復活させます。
「友鶴」は舞鶴要港部(舞鶴工廠)で建造され、昭和9年2月に就役します。この時艦艇設計を行っていたのは艦政本部第四部において主任を務めていた藤本喜久雄造船少将によるもので、小さな艦形に重武装を搭載する設計を行い用兵側の意に沿うものでした。これは船の安定性を低下させ、波浪による動揺が大きくなるものの、復元性を確保する考え方であったといわれます。
【要目(新造時)】
基準排水量:535トン、全長82.0m、最大幅:7.4m、吃水:2.0m
機関:艦本式タービン×2、缶:ロ号艦本式×2、推進軸:2軸
出力:11,000馬力、速力:30.0ノット
兵装:50口径12.7cm連装砲×1、同単装砲×1、13mm単装機銃×1、
53cm連装魚雷発射管×2
(出典:昭和造船史 第1巻 日本造船学会編
※機銃は世界の艦船別冊「日本駆逐艦史)
兵装は二等駆逐艦「若竹」型を凌ぐものでしたが、就役当初から懸念されていた復元性の問題が悲劇につながります。
就役早々の昭和9年3月12日、荒天下での演習中に佐世保港外において転覆するという大事故が発生します。「友鶴事件」と呼ばれるもので、この事件を契機に藤本造船少将の設計による艦艇の重心を低下させる大規模な改修工事を行うこととなりました。また翌年に発生した「第四艦隊事件」に伴う艦艇の船体強度改善工事と重なり、帝国海軍の多数の艦艇が工事に入ることとなり、完了までの間は艦艇の稼働率が大きく低下し帝国海軍にとって危機的な状況が続きました。
【要目(性能改善後)】
基準排水量:600トン、全長82.0m、最大幅:7.4m、吃水:2.3m
機関:艦本式タービン×2、缶:ロ号艦本式×2、推進軸:2軸
出力:11,000馬力、速力:28ノット
兵装:45口径12cm単装砲×3、13mm単装機銃×1、
53cm連装魚雷発射管×1
(出典:昭和造船史 第1巻 日本造船学会編
※機銃は世界の艦船別冊「日本駆逐艦史)
「友鶴」も性能改善工事を受け翌10年に再就役します。兵装は魚雷発射管を1基減らし、砲も砲塔形式の12.7cm砲から盾のみの12cm砲へ変更されたため、一世代前の駆逐艦よりも劣り、重心低下のバラスト等を装備したため排水量が増加し速力も30ノットを割る平凡なものとなりました。
重心低下のため環境構造物も小さく改築されたため、そのシルエットは安定感あるものとなりました。
「千鳥」型の各艦も同じ装備とされて就役しますが、当初20隻を整備するはずだったものを4隻で打ち切り、設計を改正した「鴻」型を8隻建造します。
これらの水雷艇は、日華事変に際して中国沿岸の封鎖作戦に投入され、大型砲艦として活用されます。
大東亜戦争が勃発すると昭和17年2月に西部ニューギニア方面の攻略作戦に参加した後、ニューギニア・蘭印方面の船団護衛にあたります。
昭和18年10月に第一海上護衛隊に編入され、台湾-マニラ間の船団護衛に従事、19年4月には第四海上護衛隊に編入され内地-沖縄間の船団護衛に従事します。そして昭和20年3月24日、奄美大島西方の東シナ海で船団護衛中に米艦載機の攻撃を受け沈没しました。