塾講師になったのは2012年の1月。

つまり、このブログの初期の記事は塾講師時代初期の記憶というわけだ。

あの頃はとにかく無我夢中で一生懸命仕事に励んでいた。

そして、集団授業の楽しさと怖さも感じ始めていた頃なのかな?

 

塾講師になろうと思ったきっかけは・・・というか、教員になろうと思ったのが2011年の7月(多分)。

当時絶賛ニート中だった自分。

見かねた親父から声をかけられた。

「近くの中学校で夏休み中の課外をやる講師を探しているからやってみろ」

「・・・んー、まあいいよ」

 

教えた経験は皆無だったが、自分には(大したことないのだが)留学経験もあり、英語を教えてみたいと思ったのでやってみることに。

やってみるとこれが本当に面白い。

対象は中3。説明がうまくいくと「わかった!」と言ってくれて、うまくいかないと「わかんない」。

反応がダイレクトに返ってくるのが素晴らしい!

結果的には、時間不足と彼らの学力を正しく把握できなかった(まあできないだろう)ことでそれほど効果はなかっただろう。

しかし、自分にとっては大きな経験となった。そして、ターニングポイントとなった。

 

この日自分は教員を目指そう、と単純に決心した。

昔からこうと決めたら真っ直ぐ突き進んできたタイプなので、即行動。

教員になろう!採用試験だ!次はいつだ?

 

・・・いや待てよ。

 

 

教員免許がない。

 

大学時代に教員免許取得を考えたが、授業が全て夜間なので一瞬で諦めたことを思い出した。

ヘタレ大学生にありがちな話だ。

 

というわけで通信教育の大学に入ろう!

自分は日大の通信教育を選んだ。他の通信制大学だと英語は取り扱っていないので、英語希望はここに集まる。

もちろん仕事もしよう!

ニートやめて(?)就職活動しよう!

教員志望だから塾講師やるぞ!

 

ここまでは勢いのまま突き進んだ。

しかし、ちょっとした壁にぶち当たった。

ハローワークに足を運び、塾業界の求人票を探し、片っ端から応募した。

担当のおっちゃんには是非正社員やりながら目指しなさいと言われ、トライアル雇用?だったかな?

とにかく県内の塾業界に履歴書を送り、面接を受ける。

当たり前だが、経験のない人間をいきなり正社員としては採用してはくれず・・・。

 

今思えば教員目指してるんだから正社員じゃなく契約社員で目指せよ!となるのだが。

考えが甘かった(笑)

 

大学時代にロクな就職活動をしたことがなかったので面接もほぼ初めてだ。

 

時期が時期だったので原発問題についてアレコレ質問されて「そんなん知らねーよ」と思ってたら説教されたり

いきなり模擬授業やれと言われて(よくある話だが)経験なかったのでしどろもどろになってしまったり

正社員希望で面接受けてるのに社長の熱さにビビって「将来は教員を目指してます!」なんてつい正直に白状してしまったり(笑)

 

ま受かるわけない。

 

そこで方向転換し、アルバイトとして塾講師になることを決めた。(ハロワのおっちゃんには反対された)

自分の経験のために、ここまで敬遠していた大手集団指導塾を探すことに。

すると自宅から通勤できる範囲に首都圏で展開している大手の塾があることに気づいた。

自分には指導経験なんか全くなかった。あるのは学歴だけ。

大学受験の勉強は頑張っておいて本当に良かったと思う。

 

面接では教員を目指していますと堂々と夢を語り、中学校での課外授業の話もした。

大きな嘘をつく必要がないので面接にはスラスラ答えられた。

模擬授業もやったが、ここはやはり経験不足からしどろもどろになってしまった記憶がある。

 

「3日以内に連絡します」と言われ、どうだろうな・・・とドキドキして待つこと3日。

3日目の夜9時くらいに「採用します!」と連絡が来たのを覚えている(笑)

塾業界は夜型社会なのだ。(常識的にはよくないですね)

以上が2011年末までの話。

 

当時20代半ばの自分。

塾業界としても、全くの経験のない人間を中途から正社員として登用するのはリスクが高い。

小規模のところは育てる余裕がないため、そういった理由もあり断られたのだろう。

中規模のところであとちょっとで採用までいきそうだったが、前述の通り正直に告白したためダメになった。

書類で切られたところもあった。

書類を出した後で超絶ブラック企業だと知り、ものすごく面接に来てください!的な電話も来たが全て無視したところもあった。(本当にすいませんでした)

 

採用に落ち続けたことで吹っ切れた自分は、尻込みしていた大手集団指導塾で頑張ろうと思い立つ。

そして採用された塾は、自分の人生観や教育観に大きな影響を与えてくれた。今でも感謝している。

 

長くなったが、2011年は自分のターニングポイントとなった年であったというわけだ。