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内在神と一緒に

風と光の谷の住人:流宮把のルートファインディング日記
初期投稿では自分らしく生きていくことの大切さを考えていきます。

ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)



もともとは社会的に高い地位にある人の規範であり、地位に見合っった責任と義務を指します。

古代から例えば富裕層であった貴族が、道や橋の建設費用を出したり、共同体が外国からの侵略を受ければ率先して前線で戦うなどの事例がありました。


パナマ文書が一体誰がどんな目的で公開されたのかという疑問が残りますが、この文書は税金逃れをしている富裕層や一部の大企業のオーナーが世界にもこの日本にもたくさんあったという事実を突きつけました。


日本に関して言えば所得税の最高税率は40%です。


しかしながら実態として100億円以上の所得がある富裕層がタックスヘイブンを利用して収入を海外にこっそり移転して税逃れしているため平均11%の税しか負担していないという調査もあります。


こうした富裕層に関しては納税の累進課税という基本が破綻していると言えます。


またこうして海外に資産や収入を税逃れ目的で移転する企業オーナーがブラック企業である可能性も高いでしょう。


こうしたオーナーは地域の共同体や共同体に属する従業員に対する格別の愛情のようなものは殆ど無く、安くこき使えればいい程度の見方であることでしょう。


タックスヘイブンを利用するオーナーは、当然共同体のインフラ(消防、警察、地方自治、国による保護・・・、道路網、通信、交通・・・)などの恩恵は十分利用しながら租税を逃れるフリーライダー志向のように見えます。


もちろんこうした事態を放置した上で、取りやすいところから取ろうとするこれ以上の消費税UPはあり得ないし、赦してはなりません。


こうしたオーナーたちの行為は、成功者でもなんでなく世間のお荷物であり本来収めるべき税をごまかしているという手法はやはり脱税にしか見えません。まあ脱法という言い方をしてますねヾ(。`Д´。)ノ


こういう行為を赦していけば、庶民も税負担に対する不満が生じるでしょうし社会の規範を遵守する気風も低下するで社会には悪影響しかないようです。


霊的にも過去に逆行する行為と思います。


もちろんこうしたわれよしのオーナーが何れ辿る世界は大変厳しいものになると思います。


現在という峠の時代は、個々の人間の行為がある意味神慮に沿うものかそれとも社会を不安定にするものかどうかという切り分けがある意味わかりやすくなってきていると思います。


僕たちは怒りは当然としてもパナマ文書がこのタイミングで公開された意味を良く考えて自分たちがどう進むのか、社会の規範のあり方はどうあるべきなのかもう一度考える時期にあると言えるでしょう。







ヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach,1685-1750)はヴィヴァルディと同時代の偉大な音楽家でした。


光のパターンですがi


魂:愛と叡智 、包括性2

個人性:音楽家、葛藤を通じた調和 4

      知性・・・組織化あるいは物質面と霊の統合に適する 7

      情緒・・・専心、または霊的教師にふさわしい情熱 6


となります。


ヴィヴァルディと個人性(人格面)や知性が一致します。


たぶんバッハはヴィヴァルディの作品に取っ付き易かったと思います。


ヴィヴァルディの作品3の合奏協奏曲をハープシコード協奏曲などに編曲して熱心に研究しています。


ドイツ人にとってアルプスを隔てた南国の明るい爽やかさはとても憧れでした。


魂の光が2なので外に広がる3と異なり、作品の傾向は魂自身への求心力が強まります。


知性の光7もどちらかと言えば精神的な探求を音楽に求めるややストイックな傾向を生み出します。


それで居て作品は大地にしっかり根を降ろしてそこから精神の高みへと純粋にチャレンジしているかのようです。


このプロセスは基底センターからヘッドセンターへの上昇を連想します。


おそらくバッハは一来果で転生に入りその生涯で自分を磨き不還果で天に戻ったと思います。


普通こうした天才が生まれる霊的環境(家系やDNA)はかなり長期に渡って事前に調整されているようです。


作品の最終段階では何か壮大な宇宙を表現するかのような試みがなされています。


また何と言っても音楽の父であり近代の音楽の基礎を確立した業績は偉大です。


バッハは生涯で2人のお嫁さんをもらっています。当時は流行病で命を落とす人が多かったのです。


ピアノ(ハープシコード)作品の一部は、奥さんの為に書かれたものがあり奥さんへの限りない献身的な愛情と暖かさを感じます。


バッハは最初オルガン奏者として人生をスタートしました。少しでもいい収入を求めていろいろ転職もしています。


バイオリン奏者でもあり、宮廷楽長の地位にも就いています。


そうした時期にブランデンブルグ辺境伯に献呈した作品(ブランデンブルグ協奏曲)や管弦楽組曲もよく演奏されますね┐( ̄ヘ ̄)┌ 


個人的にはバイオリンとチェロの無伴奏ソナタ集などもバッハのバイオリンへの造詣が感じられます。


カンタータやオルガン曲、マタイ受難曲などもすばらしいのですが、個人的は器楽曲にバッハらしさを感じます。


バッハの曲はどれも緻密に音楽が深く密度が高く、最初はとっつき易いとは言いがたい印象がありますが、懐は深いです。


知性の光の7が緻密さと荘厳さを音楽に加えて、魂の光の2が強い求心力と輝きを生み出しています。


何よりも音楽に捧げた深い愛を感じます。


バッハは何よりも組織(教会や宮廷)の中で活動して内向きな活動が中心でした。


驚くべきことに死後は急速に世間から忘れられた存在になっていきます。


今から思えばアンビリーバブルですね(^^;


後世の音楽研究者などから再びリバイバルされる時期がやってきました。


アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ( 1678 - 1741年)についてちょっと観てみたいと思います。

見えてくるヴィヴァルディの関連する光の属性を7種類で分類します。


魂:活動知性 3

個人性:音楽家、葛藤を通じた調和 4

      知性・・・企画力や計画の推進に適する 3

      情緒・・・専心、または霊的教師にふさわしい情熱 6


のようになっているようです


ヴィヴァルディは前世でおそらく一来向を達成し、入って来たことでしょう。


そういえばヴィヴァルディは僧職(司祭)でありピエタ慈善院付属音楽院の音楽教師でもあるんですね。


情緒面6で考えますと、やはり天職なんでしょう。


個人性に4の光を持つ人は、音楽家や芸術家に多いです┐( ̄ヘ ̄)┌


バッハもそうですね。


僕が注目する部分は魂の3と知性の3の光です。


モロにアジュナセンター全開なんですよ。4の光を補助するように作曲という仕事に若くから頭角を顕わしていくタイプでしょうか。


作曲では作品8、「四季」の合奏協奏曲集が代表作のように言われすぎていますけど、個人的には作品3、「調和の霊感」が代表作に思います。


この作品3、技術面ではピエタの女子楽団の為に書いたように思います。


シンプルだけど非常に深い想いとインスピレーションが詰まっています。


ヴィヴァルディの作品3ですからね、魂の光3の真骨頂なのか(^^/


彼の最大の業績は、作曲した作品をもってピエタの女子演奏家団員(たぶん大部分が孤児)を育て上げたこと。


彼女らを引率して演奏ツァーし、それが欧州の各都市で大絶賛を浴びたこと。


彼女たちのハートに芸術を表現する光を点火して新しい可能性を開いたことです


ネットも無い300年も昔の時代に、女子だけの演奏家ユニットを企画し、それをちゃんと人に聴かせるレベルまで高めた業績は抜群の驚異的プロデュース能力ではないでしょうか。


きちんと計画して実行する3と6の光のコラボレーションなのかもしれません。


それ以上に彼の作品には音楽への愛と情熱が詰っていたからかもしれません。


彼の3の光は協奏曲にとどまらずオペラの作曲と興行にも熱心でした。


晩年もオーストリア皇帝カール6世の前でバイオリンを演奏して高い評価を受けました。その後、ウィーンでも自分のオペラを上演する予定でした。


不幸にしてカール6世が没し、これを発端として王位継承戦争が勃発しヴィヴァルディは失意の内にウィーンで亡くなったと言います。


生前作曲した多数の作品の楽譜はオランダの出版社ロジェにて出版され、欧州の各地でその楽譜が多くの音楽関係者の演奏と啓蒙に大変役立ったそうです。


因縁でしょうか、ヴィヴァルディはその後歴史の中で忘れられ、再びイムジチというイタリアの音楽院の人たちによってリバイバルされます。


ひょっとして音楽院の団員ってピエタの女子メンバーの転生ってことかもしれませんよ(^^;

恩返しということでしょう。


早くからやっぱり因縁でしょうか、オランダのフィリップス社がイムジチの演奏をレコード/CDにしてヴィヴァルディの音楽が再び世に復活する先駆けになっていますね。

ある少女が居てこの子は同年代の子供と余り遊ばす近所の蟻をずっと観察するのが好きでした。


蟻は、個体と巣全体の意志行動の連携が素晴らしく、働き蟻や兵隊蟻で役割分担があり働き蟻もそれぞれに更に細かい役割分担があるそうです┐( ̄ヘ ̄)┌


この子のお母さんはこの少女が普通の子と少し違う点は最初大変心配されていたようです。


他の子供と遊ばない⇒社交性の無い暗い子供になるという脅迫観念があったかもと思います。


普通の子になることがそんなに大切かどうかですが、僕も変人扱いされる子供時代があったのでなんとも言い難いものはあります。


そんな心配を抱えていたお母さんがやがて子供特性についての自分の見方が偏っていたことに気付き始めます。


お母さんは自然に生物に興味を持つことは悪いことではなく、この子にとっては同年代の子供との遊びより生物の様々な姿を観察することの方が遥かに面白いということだと気付かれました。


魂の傾向として、この少女のように科学探求の路線に特化して生まれて来る方も居るようです。


そうした子供は最初関心の範囲は狭いですが、その分野では深く物事を掘り下げる傾向があります。


ありのままのわが子を受け止めることで自分の心配は後に杞憂であることが見えていきます。


少女は蟻以外にもいろいろな科学現象へと興味が広がり、学校でもそうした自然観察の班長?を勤めることで次第に友達も増えて自分の居場所を見出せたそうです。


世の保護者の方々にはついつい自分のお子さんを他のお子さんと比べたがる傾向が強いです。


我が家もそうであり、自分はそうした周囲の主観的な評価がイヤでした(^^;


ありのままに自分の子供を受け止めていくことがどんなに大切かということです。




子供時代に体験したわくわくする体験が無駄になることなんて無いです。


子供の才能を開花させるに遅すぎはありません。


なんでも掘り下げて何故何故?というお子さんの問いかけにも真摯に向き合う大人が大切です。


僕は座右の書籍を持っている訳ではありません。


時々話に挙げている黙示録や日月神示なども別に特別に親しんでいる訳ではありません。


聖書は中学の時読み始めましたが、好きには成れませんでした┐( ̄ヘ ̄)┌


僕がこの書籍を取り上げる理由は、この書籍の中に現在進行中の世界の問題を見出し、この日本の課題そして我が家系が抱えている問題点が日本の持つ問題をほぼ凝縮したものであるという生々しい実感からでした。


この書籍の中で自我も世界もひとつになっているという感覚でしょうか。


その前後の驚きと怒りや失望、酷い嫌悪感でそれらの書籍を忌まわしく感じたことさえあります。


その感覚とは憧れや反発ではなく、自分が持っていた幻想の崩壊によって生じたものとも言えるでしょう。


自己欺瞞の内、自己憐憫というものもや何かの視野の狭い献身なども非常に有害であったと思い知らされた次第です。


上記で挙げた2著作に限らずバガヴァッド・ギータであっても仏典を解説したものでも同様の経験を為される方も居られるかもしれません。


それらはどちらかと言えば気付きが中心であり、個人の救済が主眼のように思えます。


僕の場合も個人の救済の範疇かもしれませんが、単なる自分の周辺の出来事という感覚ではなく、全体のスキームの中で各個人に投影されている問題は、大きな全体と不可分ではないという感覚でした。


一般的にこうした書籍は啓蒙に重点があるような見方が一般ですが、書籍の中の言葉には何重にも仕組みが隠されており、フィルターを通過した後でエッセンスが凝縮するかの如く今解決すべき問題点を鮮やかに浮かび上がらせる働きがあるようです。


しかも優れた聖典ほど、このフィルターが数段も設置されており、初期の粗目のフィルターからより目が細かいフィルターまでが仕組まれてることが見出せます。


人に依ってはその聖典こそ我が為に書かれた~!(^^;という風にお感じになるかもしれません。


要は当事者意識を持って聖典に没入ことが大切であり、単なる興味本位や知識収集で終わってしまうのは非常にもったいないと思います。


旨くミートすれば何気ない記述の中に神慮というか自分が今まで感じることさえなかった世界観、宇宙観へと広がります。


その後に採った自分の行動は、自己の家系で生じた問題(同じDNAの系列の中で繰り返されるもの)の克服であり、そのことは自己が属する霊団(固まって転生する集団)への貢献であること、そして悪の仕組みを看破してそれらに惑わされないという決意でした。


自我も日常の出来事もこの日本で生じている問題の根本もそれはひとつです。