先日、生まれて初めて父を誘って観た映画「洗骨」。
これに先立つコト数日前、youtubeで九相図なるものを偶然観ていたワタシ。
九相図(くそうず)とはウィキペディアによると、
(以下ウィキより転載)
屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を9段階に分けて描いた仏教絵画。
つまり死後、埋葬されずに放置された肉体がどのように変化するのかを詳細に描いたもの。
(詳しくはコチラのブログにも書かれてあるので、興味ある方は覗いてみてください。)
youtubeで観た九相図はなかなかショッキングな内容ではあったけれど、
それよりも改めて、現在の日本で火葬が推奨されている理由が理解できた気がした。
魂が抜けた肉体は、崩壊の一途を辿るだけの物体でしかない。
朽ち果てていく肉体のどこにも、生前の人柄を認めることはできない。
だからこそ死後、速やかに火葬して骨にすることは衛生的に優れているだけじゃなく、
故人の尊厳を守るためにも必要なんじゃないかな。
どんな人間も等しく、死を迎えたあとは同じ経過を辿るコトを思えば、
生きている間の見栄や争いなど、本当に取るに足らない小さなモノに思えてくる。
まさに、仏教が教えようとしていることを九相図を観て胸に感じたワタシ。
この2日後に映画を観たんだけど劇中、
棺に納められた白骨化した遺体と家族が対面するシーンを観たとき、
ワタシの頭には映画では描かれなかった遺体の変遷が見えていた。
棺の中でのご遺体は、九相図に描かれていたような変化を遂げていたはずなのだ。
九相図を観ていたおかげで数秒のシーンに数年の経過を感じることができ、
より深く映画の世界を体験できたように思う。
映画を観たあとのワタシはさらに深く死を知りたくなり、
実際に行われた洗骨をyoutubeで見つけた。
あるご家族が行った洗骨の様子をドキュメンタリー番組が密着しているのだけど、
リアルなものだけが放つことができる感動がそこにはあった。
フィクション/ノンフィクションと二種類の洗骨を観たワタシの中に、
意外なものが芽生え始めている。
それは言葉にすると、「生きる事の責任」というようなもの。
死後、土葬されたご遺体は約4年後に遺族の手により再び、この世に変わり果てた姿を現す。
そして遺族たちは感謝の気持ちで骨を洗うんだ。
ワタシの死後、誰がどんな形で関わるにしても、
誰かがワタシの遺体を適切に処理するのは確実で、
当たり前だけど死んだ後の自分の体を、自分自身ではどうすることもできない。
そんな風に誰かに委ねるしかないコトを思うとき、
これまでになく生きているというコトの責任の重さに、思い至るワケなんだ。
生きてる間、どのように振る舞っても自由だからこそ、
その自由に対する責任というものを自らすすんで負いたいという気持ちが
洗骨という風習を目の当たりにしたことで自分の中に出てきている。
そんなワタシにyoutubeのAIが薦めてきたのは、
即身成仏を扱ったドキュメンタリー番組だった。
この番組によると修行により、肉体を生きながら限りなくミイラに近づけることで、
死後の腐敗なく内蔵もすべてそのままの状態で仏になる事が出来るんだという。
これに対してエジプトのミイラは、腐敗を避けるために内蔵を取り出す。
母が息を引き取るまでの間、
その白濁した目と微かに動く口元を凝視しながら
魂が体から抜ける瞬間を見届けたワタシにとって、
即身成仏が生きながら屍に近づいたというのは妙に腑に落ちる。
肉体の死が進行する前に、意識は肉体を大きく超えて拡がるんじゃないか。。。
それは例えば、苦行僧が燃え盛る炎の中で瞑想する姿と重なる。
テレビ画面をケータイで撮ったという動画で画質も音質も悪いし、
番組内の出演者たちのコメントが煩いノイズでしかないけれど(笑)
炎の儀式を行っているババのこの言葉に、すべてが集約されていると思う。
「大事なのは意識をコントロールすることです。
それができればどんな事でも可能になります」
意識。。。すべては意識なんじゃないかな。。。(・・?
即身成仏を経て、今のワタシがめちゃめちゃ興味を持っているのが仏教の世界。
これまでに何度か仏教の教えにハマった事があるけれど、
今までは苦しい状況からいかにして脱出できるか、その方法を仏教に求めていたように思う。
以前のワタシは、目の前の人や出来事などを善悪で判断していた。
そして悪を目にしたとき、その原因を自分の中に認めて改善しようと努めていた。
でもどんなに改善しようと努力しても何も変わらないどころか、
自分で自分を追い込んでいくから苦しみが増すばかりだった(ㆀ˘・з・˘)
そうやっていくうちに、自分自身が壊れたんだよねぇ。。。💦
でも今は違う。
いろんな経験を通して、この世に絶対的な善も無ければ悪も無いと理解できている。
善悪とは人によって、立場によって、視点によって、いくらでも入れ替わるモノなんだ。
だから目の前に何か悪としか映らないような人や出来事が起こったとしても、
その根源を自分の中に探し求める必要なんかない。
ただ、ありのままにみる。
努めるべきは、まず起こる出来事や目の前の人物を判断することなしに
ありのままに見ることなんだ。
そして次に祈る。
すべてがひとつであるという真理から、
目の前の人や起こる出来事とのご縁には絶対の必然性がある。
それがどのようなものに思えたとしても、必然の縁なのだから受け入れるしかないんだ。
喜んで受け入れられるものには、心からの感謝を。
ありがたいと感じられないものには、祈りながら受け取る。
この体はいずれ朽ち果ててゆく物体なのだということを忘れずに、
目の前にみえるモノの背後にある、目に見えない本質を捉えたい。
その願いを叶えるヒントが、仏教の教えにはたくさんあるんだと気がついたんだ。
超有名な般若心経や、道元の著した正法眼蔵などに改めて触れてる今、
めちゃめちゃ心がワクワクしてるのを感じている(笑)
以前から意識の覚醒や拡大、変容に並々ならぬ興味を持ち続けてるワタシだけど、
その意識のカギを今、仏教の教えに見出してるんだ。
正直なトコロ、
今回の母を看取る旅によって再度、仏教にハマるようになるとはまったくの予想外❗(笑)
しかも、仏道のルールなどは完全に無視して(笑)
もっぱら興味が向くのは教えの本質である「無」についてだけ^^;
色即是空 空即是色
自分とは即ち、すべてが起こる空間そのもの。
生まれることもなく、死ぬこともない。
ただあるのは、変幻流転を繰り返す諸行無常の一切なり。
悟りたいと強く願っていた時期もあるけれど、
今のワタシは特にそんな願いもなく、
ただただ意識というものにますます興味が向いているばかり(笑)
道元はいう。
悟りとは得るものではなく、訪れるものだと。
自分がどこに向かってるのかさっぱり分からなくなっているけれど(笑)
これが本当に生きるという事なのかも知んない。
常に、どこに向かってるのか分からず、
今いる場所さえ分からない。
何の保証もないまま、
今この瞬間に生きている事だけは確実。
その連続が生きるということであり、
生きるという事に責任を持つということなのかもしんない。
修行はまだまだ続く。。。