夏目漱石の『硝子戸の中』を読むと、漱石の子供の頃の話が出てくる。
漱石の育った旧家のあるところは新宿区の高田の馬場下で、後にできる早稲田大学の南側のところに位置した。
坂下の早稲田通りと坂上の大久保通りを結ぶ「夏目坂通り」は、名主であった漱石の父親がつけた名前だとある。
この夏目坂通りの坂下付近に漱石の家はあったと思われる。
今はもう家やビルが立ち並んでその面影もないことだろうが、昔は畑や田んぼだらけであったに違いない。
さて、その旧家のそばに、堀部安兵衛が高田馬場で敵を討つ前に立ち寄ったという「小倉屋」という酒屋があり、そこの娘のお北さんが歌う長唄を耳にする話が出てくる。
「春の日の午(ひる)過ぎなどに、私はよくうっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、お北さんのおさらいをきくでもきかぬでもなく、ぼんやり私の家の白壁に身をもたせて、たたずんでいたことがある。そのおかげで私はとうとう「旅の衣は篠懸(すずかけ)の」などという文句をいつのまにか覚えてしまった。」
ご存知の方も多いと思うが、長唄は能と同じく完全に一音一音読みである。
私は、標準語文体がどのようにしてできたのかということに強い関心がある。
漱石や鴎外の文章は、今読んでも古くない。「同時代」と言っても良い。これは標準語文体である。
なぜ彼らの文章は古くならないのか。
それは、後の人たちがそれを手本としたからである。
ともあれ、標準語文体の形成に漱石は大きな役割を果たしている。
標準語は、上方系文語文体が、日常的江戸弁と乖離しつつあるところへ、維新後、言文一致運動が起こり、また全国から東大に集まって学問、翻訳、文章活動、あるいは高級官僚として政府勤めをした人たちが、東京山手地区で使っていたものが元となったと言われるから、漱石の生まれとその後の成長はまさにその「王道」にあったとも言える。
私が関心を抱くのは、幼い漱石の耳に入っていた江戸弁である。
漱石は町内の寄席にもよく通っていた。
町内の豆腐屋の隣に寄席があり、「よく母から小遣いをもらって、講釈を聞きに出かけたものである」と言う。
この講釈氏はいつも「南麟」だと言う記述があるが、旭堂南麟は1878年に没しているから、67年生まれの漱石が10歳前後の話ということになる。
「もうしもうし花魁へ、と言われて八橋なんざますえとふり返る、とたんに切り込む刃の光」
漱石が覚えたというこの文句の八橋は、歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」に出てくる、野州佐野の豪農次郎左衛門に殺される吉原の遊女の名だそうである。これは1888年に東京千歳座で初演とのことなので、南麟はその台本を知っていたことになる。ちなみに作者の三代目河竹新七は1842年神田生まれである。
長くなったので、一度筆を置くが、私が興味を持つのは、子供の時に耳にする日本語に対する「感応」である。これはただ耳にするだけではなく頭と体に染みついて離れなくなるような言語の体験である。
日本語においては、それは和歌の中に流れる一音一音性であり、さらに錬れた江戸では、長唄の徹底的な一音一音性である。
それは、一音一音大声で発声しないと、その空間にいるすべての人の耳に届かないからなのか。
標準語を作った漱石の耳の奥底にあった音とは何か。
そして、我々の耳から奪われた環境音とは何か。