ノーベル自然科学賞受賞者に京大出身者が多いのはなぜか | JOKER.松永暢史のブログ

JOKER.松永暢史のブログ

教育相談、執筆・講演依頼は松永暢史公式サイトよりお願いします。

私の子どもの頃は、ノーベル賞といえば湯川秀樹さん(1949年、物理学賞)で、この賞を受賞することは極めて尊いことに思われた。
その後しばらくして、65年に朝永振一郎氏(物理学賞)、73年に江崎玲於奈氏(物理学賞)などが受賞し、80年代に入ると、化学賞、生理学賞の受賞者が相次いで、今では30人近くを数えるに至っている。
面白いのは、平和賞や文学賞を除いた自然科学3賞において、湯川秀樹氏をはじめ、今回の坂口志文氏(生理学賞)、北川進氏(化学賞)など受賞者の出身大学は圧倒的に京都大学が多く、逆に東京大学出身者は、江崎玲於奈氏と小柴昌俊氏(2002年物理学賞)と数えるくらいしかいないことである。
また、出身高校一覧を見ると、2001年の野依氏(灘高校)を除いて、ほぼ全てが公立高校出身者であることである。唯一の東京出身者である利根川氏は日比谷高校を経て京大理学部を卒業している。逆に江崎玲於奈氏は同志社高校出身で東京大学を卒業している。
ノーベル賞は「学歴」ではなく「実績」である。この「実績」を勝ち取った者たちのほとんどが地方公立高校の出身者であり、また東京大学以外の出身者であるということはどう言うことなのか。これはいったい何を意味するのか。東京大学こそが「最難関」であり最も優秀な学生が集まるところではなかったのか。
東京大学の創設は1877年。東京開成学校と東京医学校が合同し、法、理、工、医、文の5学部が設置された。
これに対して京都大学は、日清戦争後の1897年創設。京都理工科大学を嚆矢として法学部、医学部、文学部からなる「京都帝国大学」として出発した(同年東京大学も「東京帝国大学」と改名している)。
つまり、京都大学の創設は東京大学のそれより20年遅いことになる。東京大学は、新国家の官僚育成と西欧科学文化吸収を旨としていた。そして、川端康成や大江健三郎といった文学賞受賞者以外にも、鴎外、漱石、谷崎、芥川、三島と言ったわが国の標準語近代文学の文体を作った者は、ほとんどが東京大学出身者であった。
話をノーベル自然科学賞受賞に戻すが、私は、京都大学出身者が多いことと公立高校出身者がほとんどであることは、大きな理由になると思う。公立高校出身とは、地元の公立小学校、中学校に通い、周囲の自然環境に長年親しんだ経験があることを意味する。また京都は、文化都市である一方で、郊外には「田舎」が広がり、山も見えて景色も良い。
そして、京都大学と東京大学の最も大きな違いは、入学試験の国語試験の記述回答にあると思う。東京大学ではのちの官僚作文能力を測るために、回答しようとすると、そこでよほどの抽象化をしなければ解答欄に収まらないという設問が出題される。いや東京大学はどれもほとんど13、5センチ2行、つまり約60字以内で書くことが求められ、これが一般の受験生には困難になる。もしこの国語試験で高得点できれば、他の教科でそれなりに取れば合格するが、国語を捨てて他教科で合格に必要な得点をすることは極めて困難なことであり、またそんなことができる受験生は、自分でテキストをしっかり読む能力があるはずだから、抽象語を扱って国語でもそこそこ得点できるはずである。
対して京都大学の国語は、3行4行、それどころか5行と言うのもあり、充分な回答スペースが与えられるので、自分の言葉でなんとか書ければ必ずしも無理な抽象化は必要としない。自分の意見を思いっきり書く力があれば問題ない。
18歳時点でややこしいレトリックに慣れてそれを体得することは、超優秀な学生のごく一部に見られることであり、普通の能力の者が、それを目指して勉強すると、かえって能力が低下し、判断力や発想力が劣化することが起こる。
そして、他の誰も思いつかない新しいことを思いつく能力は、その「上」にある、ひょっとするとそうした能力と全く関係ないところにある別の能力であるが、これは抽象化の能力とは異なり試験で測ることはできない。この能力は「学習」ではなく、「体験」で培われる。
すると、そうした能力がある者も合格し得る試験にする必要がある。東大はその創設目的とその「立場上」、出題を変えることはできない。多分気がつけない。
そうこうしている間に、想像力や探究力のある優秀な学生は、SFCなどのAO入試で青田買いされて、東大型の試験勉強を避けて大学進学するようになっている。彼らは言う。「大学院で東大に行って研究するか外国の大学へ行く」。
長くなりそうなのでこれでやめるが、ノーベル賞受賞者が東大入試をせずに、自然環境に充分に接し成長した者たちであることを思う時、これからの世を生きていく上で、発想力を奪うような教育はできるだけ避けるべきで、子どもたちには自然環境体験を積極的に与える教育が求められていることになる。また、環境の良い地方国立大を目指すことは理にかなっていることになる。