「遊び」の本質と教育環境設定 | JOKER.松永暢史のブログ

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子どもはヒマがあれば、「遊ぼう」と思う。

それどころか子どもはたいていヒマなので、つねに「遊びたい」と思っているのがフツーである。

この「遊びたい」とは、非常に明らかな感情である反面、実際何に向けて遊びたいのかというのは、その対象が定まっているときとそうではない時とに別れる。

何か最近お気に入りのことでも、ある程度の時間それに熱中すれば、飽きて何か他のことがしたくなる。

それはそれでよい。何か次々と自分がやりたいことをしていけばよいのである。

子どもはそれを連続する中で、その子らしい能力を培っていくことになる。

だが、その「能力」の獲得定着には、体験的な記憶の連続が欠かせないはずであり、また、その種の「体験」は、他の事柄の能力の獲得にも相通じる何かであり、スイッチを入れる情報ソフト的な遊びで獲得されるのとは異なる体験である。つまり、具体的で体験的な遊びで得た記憶は、バーチャルな情報的体験で得る記憶よりも、その先それ以外のことに役に立つ可能性が高い情報であるということである。

ここで、本来「情報量」の多いはずのテレビやネット視聴乃至はゲーム遊びは、それが他のことに役立つ体験を与えない遊びであることに気づく人は稀であると思う。

子どもに勉強させたい。でも子どもは遊びに夢中。

それでいいではないか。もしもその遊びが体験的なものである場合は。

子どもに勉強させたい。でも子どもはスマホやゲームに夢中である。

これはまずい。それは子どもが役に立つ体験をしている可能性が低いからである。

子どもが自分から思いつかなくてもスイッチを入れれば遊べるもので遊ぶことを習慣化すれば、「能力」が低下するのは当然のことである。能力が低下する方向性にある者に勉強させることは無理なハナシである。

ビールを飲んでスポーツ観戦に熱中する大人—これはいたしかたないのか。彼らは日中我慢して働いているのであるから。

ヒマさえあればスマホをいじる主婦—これもしかたがないのか。女の人は、忙しくても情報交換せざるを得ないから。

しかし、子どもにはまずい。体験的情報ではなくて、商品経済的な情報ばかりになる。それらは記憶してもほとんど役に立たない。せいぜいが友達とそれを知っているかと情報共有拡散するだけである。

自ら良く前向きに勉強する子どもはスマホを持たず、というよりも確実にこれを制限し、その家族はテレビを見ない。

彼らはヒマがあればやるべきことをすぐ片付け、したいことを想起してすぐにそれを行う。そして本を読み、楽器を手にする。先行きの計画を練る。つまり、自らアタマを使う。

ヒマな時には「遊び」、つまり能力開発を行う。

そしてやがて、「勉強」ほど能力開発に結びつきやすい「遊び」はないことに気づく。

もし、最初からそれに気づかせる教育環境設定に成功した家の子は確実にその能力を伸ばす。