<前回より続く>
第十 李鴻章遭難と三國干渉(3)
(福沢の「時事新報」社説)つづき2
日清の戰爭は宣戰の詔勅に明なり、彼の無禮を懲らして眞實悔悟するに至らざれば止む可らず。然るに彼の頑陋※1政府の内情如何と尋ぬるに、斯くまでに敗北しながら今日尚ほ未だ敗北とは思はず、傲然として我れを目するに倭奴※2を以てし、倭奴の國、小にして貧なり、其來寇は唯財物を貪るが爲めなり、多少の錢を與へて退かしむ可きのみとて悠々自から居り、日本の國力を測りて進退を決するが如きは夢にも思付かざる所なりと云ふ。左れば今囘の談判こそ秘密中の極秘にして、雙方當局の人より外に知る者なしと雖も、彼の政府部内の大概を卜し、又彼の新聞紙上の論説を讀み、彼れ是れと取捨して彼等の意見の所在を臆測するに、多少の償金は兎も角も、中國の地を割て倭奴に授くるが如きは今日尚ほ未だ容易に決すること能はざる所ならん。
如何となれば地を割て降を乞ふは敗者の事なれども、彼等の氣位は開戰以來今に至るまで曾て自國の敗北を認めざるものなればなり。斯る無神經の頑物を相手にして談判の最中、言はず語らずの間に李氏遭難の事などを酌量して手を弛むるが如きあらんには、是れぞ紛れもなき宋襄の仁※3にして、此方の會釋は偶(たまた)ま以て彼の傲慢を増長せしむるの媒介と爲り、世界中の嘲を買ふのみか、當の敵たる支那人までも竊に冷笑して、倭奴與みし易きの聲を高くするに足る可きのみ。畢竟するに世間の俗論交戰の中に居ながら、義侠など云ふ一個人の私徳論に醉ふて、國家萬世の大利害を忘るゝものと云ふ可し。義侠の徳心美ならざるに非ずと雖も、之を施すに時あり處あり、大戰爭の大利害を決するに義侠など口にす可き場合に非ず。
※1■頑陋:(がんろう)かたくなで愚かなこと。頑固で道理をわきまえないこと
※2■倭奴:(わど)古代、中国人が日本人を呼んだ称
※3■宋襄の仁:(そうじょうのじん)無用の情けをかけたためにひどい目にあうことのたとえ(「宋襄」晋代の末の襄公。襄公が楚の大軍に対峙したとき、公子の目夷が敵の布陣がととのう前に先制攻撃を仕掛けるよう進言したが、襄公は「君子は人の難儀につけこまないものだ」と言って、敵の陣形がととのうまで攻撃命令を下さなかった。それが原因で楚に大敗を喫したという故事に由来する)
<つづく>
(2024.6.13記)