第3823回 『福澤諭吉伝 第三巻』その471<第三 塾制學務の改革(1)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第四 塾制學務の改革(1)

 

 斯る中にも日清戰爭後日本社會の有様は大に面目を改め、萬般の人事多忙多端となり、有用の人材を養成し實學を普及せしむるの必要ますます大ならんとするに就ては、義塾の敎育設備も此趨勢に應じて改良擴張を圖らねばならぬ、否な此趨勢に先だって從來保持し來れる塾の特色をますます發揮せねばならぬ、それには更に學制塾務を改革して一層學科を高尚にし、時勢に適應するの方針を以て進むことに決し、評議員中から委員を選任し、當事者と協力して學制塾務の改革を審議し、其結果成案を得たので、三十年九月十八日、塾内の演説館に敎職員及び學生を集めて發表した其要旨は、左の通りである。

    慶應義塾の學事改良

 慶應義塾は幼稚舎、普通部、及び大學部の三部より成るものにして、大學卒業を以て終局とするものなれども、是迄は三者おのおの獨立の姿を爲して其間の聯絡十分ならざりしが爲め、經濟上に於ても又學事上に於ても遺憾の點少なからざりき。其次第は普通部を卒業すれば即ち慶應義塾卒業の名を得るが故に、大抵の人は此に滿足して更らに大學に入らんことを欲せず、大學部は恰も帝國大學の大學院と同視せらるゝの觀なきに非ず、特に普通部の卒業生は無試驗にて大學部に入るの制なれども、普通部の生徒は毎年四月、七月、十二月の三囘に卒業するに拘はらず、大學部は十二月一囘の卒業なれば、普通部卒業生が大學に入るには自から不便なきを得ず。近來世間の學事も追々進歩し來りたれば、最早普通部の卒業のみを以て滿足す可らず、進で大學に入るの必要は云ふまでもなし。

 是に於てか今後は義塾の主力を大學部に注ぎ、單に普通部の卒業を以て慶應義塾の卒業とせず、大學の科程を卒て始めて義塾卒業の名を與へんのみ。随て其學期を改め大學部、普通部とも毎年五月より翌年四月に至る一箇年を以て一學年と爲す可し。斯の如くすれば一方に於ては大學部の學生を増し、他の一方に於ては普通部學級の數を減じて、經濟上竝に學事上得る所少なからざる可し。

 

 <つづく>

 (2024.2.6記)