「いじめ」を無くす妙案あり
いじめ自殺を予告する手紙が文部科学省に相次いでいるという。
溺れる者は藁をも掴む。いじめられた中高生は文科省をもすがる。
こんな皮肉を書くのは私が文部省をハナから信用していないからである。
私が陰湿ないじめを受けてどこかに駆け込むとするなら警察に駆け込む。
役人や教師よりは官憲の方が信用できるからである。
もちろん、「陰湿な」という条件つきだ。
ちょっとしたいじめで一々警察に駆け込んでいてはキリがない。
最近のいじめは陰湿化しているという。
確かに、金や物を取ったり、後遺症が残るほどの暴力を振るうのは
もはやいじめではなく窃盗であり恐喝であり傷害罪である。
窃盗や恐喝、傷害をいじめと言い換えるのは売春を援助交際と呼ぶのと同じ料簡か。
言い換えもそうだが、新聞はいじめていた生徒の罪は不問にして学校や教育委員会など行政の不手際ばかりをあげつらう。
いじめが起こったのは教師や学校が悪くていじめた生徒には無いらしい。
無論、生徒と共にいじめに参加していた教師が居たことも承知している。
そんな教師は論外だが、もっとも責められるべきはいじめた生徒であるはずだ。
誰も言わないから私が言う。
いじめた生徒の名前を公表しろ。
その上で、そいつらを刑務所にでも少年院にでもぶち込めばよかろう。
この期に及んでまだ人権がどうとかいうのなら、今後も自殺者は増えるばかりだろう。
戦争と同じでいじめも決して無くならない。
だから、いじめが起きた時の対処の仕方を考えねばならないのに、
テレビのコメンテーターなどは、ただひたすら、いじめはよくないと念仏を唱えるだけだ。
念仏を唱えていじめがなくなるならば戦争もとっくの昔になくなっている。
だから、私は悪質ないじめをした生徒には縄を附けろと言っている。
新聞はこれを暴言という。
警察を学校に介入させることを嫌う。新聞にとって警察は国家権力で悪だからである。
では、新聞が喜ぶいじめを無くす妙案を紹介しよう。
憲法に「いじめはいたしません」と明記するのである。
憲法に戦争をしませんと書けば戦争が無くなるのだろうから、いじめも無くなるはずである。
新聞がこの案を一笑に付すならば、己の主張を顧みるがいい。
本当に笑ってよいのは普段、新聞の主張を笑っている人だけである。
国のやらせ、新聞のやらせ
タウンミーティングで政府がやらせ質問をしていたことを新聞が批難している。
政府が国民に頼んで政府に都合の良い質問をさせたそうである。
質問を頼まれた一人は
「時代に対応すべく、教育の根本となる教育基本法は見直すべきだと思います」
と云ったそうだが、こんなさくらを雇わねば教育基本法は改正できぬのか。
ならば、いつまで経っても改正出来ないに相違ない。
そもそも、タウンミーティングとはなんだ。
こんな正体不明の外来語を用いるから初めから国民にそっぽを向かれている。
会合、または討論会とでも呼べ。
やらせが好きなのは国だけに限らない。
テレビはやらせをしない番組を見つける方が困難であるし、新聞の投書欄もやらせと同じである。
異なる点は、国は呼びかけてもさくらが集まらないので自らさくらを雇わざるを得ず、
新聞は自然と自社に都合のよい意見が集まるからさくらを雇うに及ばない。
新聞の投書欄に新聞社の自説と異なる意見が載ったためしはない。
やらせがあったにしろ、国に都合の悪い意見も出るタウンなんとかの方がまだましだ。
テレビも新聞も大好きなやらせを国もやらない道理は無い。
みんな仲良くやらせをやっているだけである。
新聞は国のやらせは批難するがテレビ・新聞のやらせを批難する日は来ないだろう。
核議論のタブー
麻生外相や中川昭一政調会長が核武装議論の必要性を主張したら、野党とマスコミはこぞってこれを批難した。
野党に至っては安倍首相に麻生外相の罷免要求をすることを決定したという。
かつて、「南京大虐殺はでっちあげだ」と本当のことを云った永野茂門法相は首が飛んだ。
数年前も核武装議論の必要性を説いた当時防衛事務次官だった西村眞悟が首を飛ばされた。
最近は随分、そういう議論の風通しが良くなったといわれるが、
野党やマスコミはまだまだ都合の悪い言説を吐く者の首を飛ばしたいらしい。
なんのことはない。我が国に言論の自由は無い。
戦前は国家が言論を封じた。戦後はマスコミや良識派と言われる人々が言論を封じようとする。
その手をくだす者が代わっただけでその実、変わらない。
つい昨日まで、進歩派と称する知識人たちはアメリカなど資本主義国の核は汚いが、社会主義国の中国・ソ連の核は奇麗な核だと言って憚らなかった。
マスコミもそれに追随した。
しかし、ソ連が瓦解し、中国の化けの皮がはがれ、北朝鮮が地上の楽園でないことが大衆にも知れると
お利巧な知識人たちは中国ソ連の核は奇麗だとは云わなくなった。
転向したのではない。云うと世間から叩かれるから云わなくなっただけだ。
近年、憲法改正論議が堂々と論じられるようになったのはそれを云っても誰も批難しなくなったからである。
右派も左派も周りをキョロキョロ見渡して意見を言うこと、これ何時の時代も同じである。
知識人やマスコミは皇室のタブーを批判することはやぶさかでないが、核議論のタブーは無視をする。
それどころか、自ら進んでタブーを作りたがる。
タブーを批判する同じ口でタブーを作っているのだから世話は無い。
我が国の人々は左右を問わずタブーを作ることが好きとみえる。