関田さんと初めてお話ししたのは、今から八年前の2000年春のことでした。
この年に東京都の主催事業で東京2000年祭「世界の子ども交流コンサート」
というのが東京国際フォーラムで開かれ、
このコンサート出演に向けた和太鼓ワークショップに当時小学六年生の息子さんが参加されたのが切っ掛けでした。
稽古場となったお台場の公共ホールで休憩時間に話したのが最初だったと思います。
この時から進んで太鼓の搬入搬出などを手伝ってくれていたのが印象に残っています。
このコンサート出演が切っ掛けで、ご自身も太鼓を叩くようになり、二人揃って私の太鼓アイランドにも参加されるようになりましたが、お子さんが大きくなり、お父さんの道昭さん一人が積極的に参加されていた時期がありました。
地元の小学校で子供達を集めて太鼓グループ「Beat(鼓動)」も作り、子供達に指導もするようになりましたが、ご長男が家に戻ったのを機会に、家族で太鼓を叩くようになりました。
この関田家の太鼓指導に月一回呼ばれるようになったのが、四年ほど前のことだったと思います。
ここに関田家以外にも同好の仲間が加わり、
「なんだかんだ言ってもね、太鼓が好きなんですよ」
という言葉から名前も付いたのが、太鼓アイランド品川『東京なん駄かん打』でした。
子供達には本物の良い太鼓を叩かせたいと、宮太鼓と締め太鼓はすべて浅野太鼓で、担ぎ桶太鼓は弘前の渡辺太鼓をご自身で揃えました。
関田さんは、その後の私の打組主催コンサートにはすべてに関わり、お客さんとして観るだけではなく、スタッフとして動いてくれていました。
息子さん二人も連れて三人一緒に、打一好祭や25周年、30周年記念公演の裏方としても動いて下さいました。
今年の夏・7月門仲天井ホールライブでは、息子さん二人が舞台スタッフとして動き、道昭さんは調光室から記録ビデオを撮ってくれていました。
一週間後に迫った12月のライブでも同じようにお手伝いをして下さる予定でした。
私はそれらの好意にいつもいつも甘え、支えていただいておりました。
関田さんの、特にここ数年の太鼓にかける情熱はかなり熱く、自分は創作系の太鼓よりも伝統太鼓がいいと、秩父の夜祭りを皮切りに、石川輪島の御陣乗太鼓の夏祭りに毎年でかけ、弘前の御山参詣にも二年続けて参加し岩木山にも何度も登っています。
そして不思議なことに行く先々で地元の方と友だちになって来るのです。
私が「徳島の阿波踊りが日本一だ」と言うと、今年の夏は徳島までも来てくれました。
もちろん淡路島には、昨年の島一周歩き太鼓の旅公演をはじめ、今年も応援に来てくれました。
数え上げれば書き出せばきりがなく、普段の太鼓アイランド目黒『伝統太鼓塾』でも、
我が家に道具の置き場所がないと聞けば、関田家で預かって下さり、毎回必要な時に自前で持ってきてくれ、太鼓も借りていました。
2000年からの八年間は、私が東京打撃団から離れ、一人の太鼓打ちとして独り立ちしていく、大事な大事な八年間だったと思います。
この八年間、まさに私の太鼓生活と共に、そして太鼓アイランドと共に歩んで下さったと言えます。
何の見返りも求めず、また押しつけることも一切ない、本当に純粋な応援でした。
最後にお会いしたのは倒れる前日の日曜日、上目黒住区センターでの『東京なん駄かん打』の稽古でした。
この日は、
「子供たちが朝寝坊して・・・」といつもより少し遅めの始まりでしたが、いつもと変わらぬ様子で、練習をしました。
練習を終えて戸外に出ると、真っ青の好天でした。
「弘前の渡辺太鼓さんからリンゴをたくさん送られてきたので」と、
みなさんにお裾分けで配られ、私も頂戴しました。
その暖かい冬の陽光の下、リンゴを受け取って別れたのが、関田さんとの最後の別れとなってしまうとは、誰が予想出来たでしょうか?
翌日12月1日。
月曜日、仕事場で倒れ、午後に亡くなられたそうです。
心筋梗塞と聞きました。
本当に思いがけない別れでした。まだ65歳です。今でも信じられません。
先日の木曜日の午前、この日も12月というのに穏やかな暖かい空でした。
棺の中で安らかに眠る道昭さんの胸には、一組の太鼓アイランドのバチがありました。
ご家族一人一人を本当に愛し、周りの仲間、出会った人々を大切にし、そして太鼓を愛していました。
もちろん私にも全身全霊で愛情を注いで下さいました。
関田道昭さん、ほんとうにありがとうございました。
お礼の言葉は、とてもここでは語り尽くすことはできません。この続きは太鼓の音に換えさせていただきます。
合掌。。。
富田和明
2007.6.29 淡路島一周歩き太鼓の旅公演の応援で来島
Photo/Kubota Mika
2007.3.24 太鼓アイランドフェスティバル・打一好祭2007にて
Photo/Kajiyama Hiroaki