まもなく

東日本大震災から

8年が経ちますね。


以下の記事は

2年前の今日3月11日に

私が書き綴ったものです。


それぞれの3月11日があって

それぞれの8年間があると思います。


これは私の2011年3月11日のこと。


私自身が

忘れることの無いように、と

綴ったものです。


長文ですが

私のブログを読んでくれる皆さまに

読んでいただけたらと思います。



↓↓




2011年3月11日。

当時私は地元塩竈のお隣り多賀城市内で働いていました。私は仕事中トイレに立ち、済ませた時、大きな揺れが襲いました。14:46。建物の2階、横揺れが大きくとても立っていられません。慌ててトイレを出て、エレベーター前のエントランスにいた何人かで手をつなぎ、輪になってしゃがみ込みました。悲鳴を上げながら手を握り合い、揺れがおさまるのを願い、待ちました。数分が何十分のよう。建物が揺れる激しい音。「この建物が潰れたら死ぬ」安易に考えられるほどの恐怖でした。


大きな揺れがおさまった後、私はすぐに自分のロッカーをあけ荷物を取り出し、上着を取り、家族と親友Rにメールをしました。(震災の)数日前にも大きな揺れがあり、その時に電話が繋がりにくい状況が起こったので、すぐに連絡をしなくてはと思ったんです。自分が会社にいること、無事であること。それだけを震える手で打ち込み送信しました。直後の通信溷濁で返信メールは私の元には届きませんでしたが、私は無事を信じて建物を出ました。


揺れはおさまらず、何度も何度も襲ってきます。電信柱がぐわんぐわんと揺れ、常に揺れているような感覚に酔いそうでした。会社の上司が点呼を取り終わった後、耳を疑う言葉が耳に飛び込みます。「津波が来る!」


多賀城市が海沿いの街であるという意識が薄かった私。考えてみれば社員食堂から海が見えたし、仙台港はすぐそこだ。でも...今までの経験上、津波警報や注意報が出ても1mやそこら。まさかのまさか、だ。でも...さっきの揺れは尋常じゃなかったし...もしかすると、だ。信じる信じないというか、判断も出来ないほど混乱した状態のまま、私は上司の指示に従った。私が働いていた建物は倒壊寸前だったため、会社敷地内にある別の建物に避難しました。


3階か4階まで上がったところで再び点呼が取られました。揺れが続くなか、どれくらい時間がたっただろう。おそらくそれ程時間が経っていなかったと思います。窓ぎわに集まる人だかりが騒がしい。私も近付いて外を覗いた。私は言葉を失くした。...津波が来たのだ。


建物の1階以上浸水して、辺り一面黒い水に覆われていた。車のクラクション音と、屋根に上って助けを求める人の声が響く。流れてくる車。恐ろしいと言うより、起きている現実を受け入れられず、フワフワした感覚だった。一体何が起きているんだろう。そしてこれが現実ならば、私は...。不安のまま夜を迎えます。


私の職場の建物は津波などの災害時の指定避難場所になっていたためか、自衛隊の無線?のようなものがありました。何度も襲う揺れの度に、無線が鳴り、新潟で揺れた、どこどこで揺れたという言葉に不安を煽られました。テレビが見れずにいた私の情報は今自分がいるところの状況しかありませんでしたから。深夜に職場の仲間が携帯だったかでラジオを流しました。「閖上に200体の死体が...」聴こえてきた恐ろしい現実を伝える言葉。当然ラジオを聴き続ける勇気は誰にもありませんでした。


一気に恐怖に襲れました。このまま建物から出られなかったら。目の前の建物の火災がこの油まみれの水に引火してこの建物に火が移ったら。私はどうなってしまうんだろう。真っ暗に澄んだ空がやけに綺麗に見えた。寒さ、揺れ、無線の音が響くなか、私は恐怖を押し殺して一夜を明かしました。


2011年3月12日。

翌朝から、自衛隊の方々が敷地内に入り、私達の脱出するルートを確保するため作業を始めて下さっていました。上司がこう告げます。「自衛隊の方々が脱出ルートを確保して下さっています。帰りたい人は帰って下さい。ただし、この敷地内から出られたとしても、自宅までの安全を保証することは出来ません。それでも帰るという人は手を挙げて下さい。」私は何がなんでも帰りたい。そう思いました。きっと家族が待っていると信じていたから。私は迷わず手を挙げました。


私の順番が来たのは午後一時過ぎ。ブーツが脱げなうようにガムテープでぐるぐる巻きにして、コートは胸のあたりまでまくり上げました。私は覚悟を決めて水の中へ足を踏み入れます。


自衛隊の方に誘導してもらいながら、私で太ももあたりまで水に使って歩いたり、深いところは簡易的なボートに乗ったり、流れてきた車の上を歩いたり、建物に入り二階の窓から降りたり。何分かかったか、必死すぎて覚えていません。私はなんとか敷地の入口、国道沿いまで辿り着きました。待ち構えて下さった自衛隊の方から、サバの缶詰を手渡されました。それがとても妙な感覚だったのを覚えています。ここから塩釜へ。私は帰らなくてはならないのです。


国道に出ると、まるで映画の世界にいるようでした。七ヶ浜方面は浸水しているため、仙台方面に少し戻って塩釜へ向かいました。国道添いに植えられた木にはトレーラーは引っかかり、コンビニの駐車場には何十台もの車がギューっと押し込められていました。中央分離帯で老夫婦が何かを拾っています。よく見ると近くのイオンから流れてきた食料品でした。なんだこれは。違う世界に来たようでした。足元が2〜30センチ冠水している道も歩きました。お店の硝子が割れていたし、濁った水で足元が見えません。慎重に足を進めました。途中、橋を渡りましたが川の流れが速く、船が流れていました。私は喉が乾き、自動販売機にお金を入れましたが戻ってきます。そりゃそうだ。電気が止まっている。スーパーには人が集まり、食料のことも気になりましたが、私はまず「家族に逢いたい」そう思っていたので、とにかく歩きました。二時間半くらいだったと思います。私は自宅に辿り着きました。


塩釜でも私の自宅は海からは離れたところにあります。自宅が倒壊していなければ、祖母は無事だろうと信じていました。父と母は、仕事で塩釜でも海の方にいることもあり心配でした。靴や服が汚れていた私は、庭の方からまわり「ただいま」と家の中を覗きました。家族はカセットコンロで夕食の準備中。拍子抜けするほど、いつもの雰囲気。家族は良かったと涙を流し、私も一気に安心して涙が流れました。普通の日常がこんなに愛おしいことを、家族4人、泣きながら噛み締めました。


さいごに


2011年3月12日を迎えられなかった人がたくさんいて、思い出すことすらない程に、普通で、幸せだった日常が、2万3121人分、失われました。


東日本大震災から今日で8年。


わたしは

今日も生きている幸せを

普通の日常がある幸せを

歌をうたえる喜びを

噛み締めたいと思います。


※ この写真は2011年3月11日、私が避難した建物から撮影したものです。