憲法判例解説

憲法判例の意訳・超訳、解説をします。


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(1)長すぎる前振りと事案


青砥という駅があります。


私が、品川の戸越公園に住んでいたとき、そこから京成電鉄方面に行くときは、都営浅草線に乗り、青砥で乗り換えておりました。青砥とか亀有っていうと、両津カンキチさんのイメージが強いですけど(こち亀ね)亀有公園前には派出所がなかったような気がします。そのほか、青砥と言えば、シンフォニーヒルズでしょうか。私は、4年ほど前に、イングリッド・フリッターの公演をここで聴きました。日本ツアーでは、ここだけのオリジナルプログラムで、得した気分だった覚えがあります。


余談も余談ですが、フリッターは、ユンディ・リが1位を獲得したときのショパンコンクールで2位でした。アルゼンチンでは、アルゲリッチの再来とか言われているらしいです。DVDには、彼女のインタビューなども入っているものもあり、非常に勉強になりました。日本でのレセプションで、どなたかが、どうしたらそんなに上手になるのか、とたずねて(!)、困った顔で、練習です、と答えていたのが印象的です。


彼女は、ショパンコンクールでも、カワイのEXを使用されていましたが、かつしかでも、カワイだった気がします。彼女の演奏は、カワイの音と相性がいいのかもしれませんね。ちなみに、私の友人は、フリッターは、かわいいからカワイを使ってるんだ、と真顔で主張してました。フリッターが日本語でギャグかますか、って。


のっけから、余談しまくりました。この青砥に私立修徳高校があります。


ここは、先の事件でも見たように、校則で「無届での自動車類免許取得及び乗車については、理由の如何を問わず退学勧告をする」等と定めていました。


前回、東京学館高校のバイク三ない原則違反退学事件の最高裁判決を見ましたが、今回は、同じように、バイクの免許をとったことで退学処分になったことが、裁判所によって違法とされた事件を見てみましょう。


ある男子生徒が、2年生に在学中、無届で自動二輪免許を取得し、バイクも買いました。


しかし、友人が、昭和62年にバイク運転中に事故で死亡、そのことに衝撃を受けた彼は、バイクを売却し、免許を父親に預けました。この年の12月、担任の教諭から、免許証を持っているなら提出するよう言われ、運転免許証を提出しました。


しかし、その後学校に、この生徒がバイクに乗っていると通報があり、生徒は基本的にはバイクに乗っていなかったと主張しました(高裁の認定では自宅周辺で無免許のまま3,4回乗ったということです)が、翌年1月に自主退学勧告を受け、退学処分にされました。この男子生徒は、この退学処分を違法として損害賠償を請求し訴訟に及んだという事案です。


この男子生徒の主張は、


1)バイクの運転免許を取得、運転することは憲法13条の規定する幸福追求権の一部である自己決定権の一内容として保障されています。

2)憲法13条が直接適用されないとしても、私立学校も公の性質を持つものであり、私立学校と生徒の間には、憲法を直接適用すると同様の保障が図られるべきです。

3)学校が校則を制定できるのは、学校内の教育に関する事項に限ります。学校内の教育と関係のない学校外の私的生活を、校則で規制するのは権限を逸脱したものです。

4)免許証を担任に提出した後は、友人に頼まれて修理に出した原付に一度乗ったのみで、バイクには乗っていない(ただし、高裁は否定)のですから、本件の処分は重すぎ、不公平なもので、校長の裁量権を逸脱しています。



(2)地裁判決(東京地判平成3・5・27)


憲法13条の規定は、もっぱら国又は公共団体と個人との関係を規律するもので、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではありません。私人間の権利が相互に矛盾対立する場合、その調整は、原則として私的自治に委ねられ、侵害が社会的に許容できる限界を超える場合には、立法措置による是正、または私的自治に対する一般的制限規定である民法1条・90条、または不法行為の規定による調整が図られます。


私立学校が公共性を有し、補助金等の支出があるからといって、私立学校を国または公共団体と同視し、私立学校と生徒間の関係について、公権力と個人と同様の人権規律が適用されるということはできません。ですから、本件が憲法13条に違反するという主張は採用することができません。


ここまでで、私人間における憲法の効力を否定しています。前段はいつものフレーズ。後段は、生徒の側の、私立学校も公の性質を持つから憲法を直接適用すべきという主張に反論したものです。


団体は、その結成目的を達成するため、必要な事項を定め、構成員を規律する機能を持っています。高等学校も、生徒の教育を目的とする団体として、そのために必要な事項を学則等により制定し、生徒を規律する機能を持っているのです。そして、生徒は自らの意思に基づいて、学校の規律に服することを承認して入学します。


そして、この学則等の規定が合理的なものであるときは、その違反に対しては、教育上必要と認められるときに限り、制裁を科し、これによって学則等の実効性を担保することも許容されます。


制裁が生徒の権利や自由を制限するというだけで、無効ということはできません。生徒が一般法令上禁止されない行為について制限を受けることになっても、学則等の規定の合理性は左右されません。


学校設置者は、生徒の教育という目的に関連する限り、生徒の校外での活動についても規律することができます。免許取得・バイク乗車の禁止の校則は、社会通念上十分合理性があります。


バイクの免許の取得は生徒の学校外の生活にかかわり、学校は、生徒の教育という目的に関連する限りで規制の対象とすることができます。ですから、学校によるバイクの免許取得に対する規制は、それぞれの学校の事情により色々なものがありえるので、教育の実践の場における「賢明な」(「」筆者、すみません)選択に委ねられます。この選択は、合理的と認められる限りは、他により賢明な方法があるからといって、違法の評価を受けるものではなく、より賢明な方法への変更は、教育関係者の叡知によって実現されるべきで、法によってこれを強制すべき性質のものではありません。


と、まあ、思う存分に部分社会論を繰り広げます。書いていて嫌になってきた。しかし、こうして、校則の存在自体は合理性があるとしつつ、判決は、この校則の本件への適用については疑問視します。


この男子生徒には、もはや改善の余地がなく、学外に排除することも教育上やむをえないとはいえないから、本件処分社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権の範囲を逸脱した違法な処分です。


この結論だけを見ると、なんとまあ寛大なという気もしなくはありません。じじつ、この地裁判決に対しては、評価する論評も見られます。確かに、結論的には、学校側の校則の適用方法については裁量の範囲を逸脱しているとしているものの、その前提として、そもそも校則の合理性自体には全く疑問をさしはさんでいないわけですね。このあたりの消息を、高裁判決の該当部分から見てみましょう。


(3)高裁判決(東京高判平成4・3・19)


事実認定をみれば、この生徒の、生活指導規定違反の態様は軽いものではありません。また、両親が高校のバイク禁止の方針を認識し、これを遵守するという誓約書を提出しながら、免許取得及びバイク購入を容認していたことや、バイク乗車が学校に発覚してから、母親が事実を否定するような対応を考えると、家庭での指導は難しいと学校側が判断したことも無理はありません。


これらの点から考えると、バイク禁止の教育方針を重視する学校側が、自主退学を拒否し退学処分に異議がない旨の書面を提出した生徒に対して、退学処分をするのが相当と判断したことも、一見、無理がないとも思えます。


しかし、退学処分は、生徒の身分を剥奪する重大な措置ですから、生徒に改善の見込みがなく、これを学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って選択すべきものです。とくに、年齢的に心身の発育のバランスを欠きがちで人格形成の途上にある高校生での場合、退学処分の選択は十分な教育的配慮の下に慎重になされることが要求されます。


そこで、本件についてみると、


1)本件は、昭和63年1月20日の匿名の電話通報によって表面化し、翌月3日に本件退学処分が行われています。


学校は、10日余りの間に、退学しかないとの態度を決め、退学勧告をし、母親が拒否するとすぐに退学処分に異議がない旨の書面の提出を求め、その書面の提出をまって本件退学処分を決定したものです。


つまり、生徒が退学勧告に応じないときは退学処分をする以外にはないとの姿勢だったということです。


その過程において、できるだけ退学という事態を避けて他の懲戒処分をする余地がないかどうか、そのために生徒や両親に対し、実質的な指導あるいは懇談を試み、今後の改善の可能性などについて慎重に配慮した形跡は認められません。


こうした学校側の対応は、杓子定規で、責任追及にのみ性急で、退学処分の重大性を考えれば、教育的配慮に欠けるところがありました。


2)生徒の禁止違反行為は、一回だけではないし、教諭の注意にも背いたものです。


しかし、学校側の評価によれば、この生徒は、やや気が弱く、調子に乗りやすい面はあるものの、他人に優しく、明るく素直な性格で、1年生時の成績は中位よりやや下、出席状況も悪くなく、本件のバイク問題以外には学校から注意や処分を受けたこともなく、学校生活上で問題のある生徒とはされていませんでした。


また、この生徒は、最初の免許証提出の呼びかけには応じなかったものの、その後、任意に免許証を提出し、バイクも処分し、教諭らの事情聴取に対しても素直に応じてバイク乗車の事実を認めていました。


こうした、生徒の性格及び行状からみて、本件の違反行為が、あくまでも校則に従わずバイク乗車を続けようという反抗的態度の表れである、とみるのは厳しすぎます。


適切な教育が行われるならば、生徒に反省させ、これを善導して、今後、違反行為をしなくなることも期待できたはずです。生徒の家庭についても、学校側の指導監督への協力をどうしても期待できなかったとは認められません。


3)本件高校では、バイク禁止を重要な教育方針として徹底を図り、それなりの成果を上げてきました。そして、これに違反した生徒に対しては退学を勧告し、これに応じて自主退学した生徒も過去に数名いました。


しかし、一方では、運転免許証の提出に応じた生徒に対しては処分を行わない取扱いをしたこともありました。また、運転免許を取得したけれど、乗車は確認できなかった生徒に対して無期停学処分をしたという例もありました。


更に、バイク禁止に対する社会的評価が時代とともに変化しつつあることも、無視し難い事実です。


これらを考えると、この生徒の違反行為に対し、退学処分をしなければ、高校の教育方針を損ない、他の生徒に対する訓戒的効果も失われ、教育上見過ごすことのできないような悪影響があるとは、認めることはできません。


このように、判決は、この生徒の違反の程度と「更生」の可能性を詳しく検討しているのであって、校則自体の合理性については、わずかに、社会的評価が変化しつつあると述べるにとどまっています。


以上、生徒の校則違反行為は軽微ではないけれども、適切な教育的配慮を施しても、もはや改善の見込みがなく、これを学外に排除することが教育上やむを得ないものだったとは認めることができません。


ですから、本件処分は、処分権者に認められた合理的裁量の範囲を超えた違法な行為です。


(4)附記


この高裁判決は、上告されず、確定しました。


さて、これらの裁判例は、校則に従うことを一方的に善とし、それに向かい善導できるか否かという視点からしか語っていないわけですね。その前提には、おなじみの、私人間効力そして部分社会論、があるわけです。


しかし、昨今のいじめの問題などを見ても、子どもたちの人権感覚を育てる必要があるのは明らかで、こうした不合理な校則の押付けは、むしろ、人権感覚を突き崩すものに思われます。あるいは、カルデロンさんの事件や、熊本の体罰訴訟への反応に見られるような、形式的な法適合性からはみ出した弱者に対しての非道な反応なども、このようなところに遠因があるように思えてなりません。さらには、その一方で、強者に対しては唯々諾々と従い、不合理な労働条件や理不尽な上司に対しても、言うべきことを言わずに黙って耐えてしまうような人間を作りださないか、心配なところです。


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