銀杏の紅葉がピークになると
黄色が鮮やかで発光しているように見えます。
その原因のひとつとして
「価値」という言葉に
対しての自分の設定が
ザックリしている
ということがあります。
わたしも以前はよく感じていましたが
自分責めや自己否定をしていると
自分の価値なんてないような気がする
勘違いがよく起きます。
わたしなんて代わりはたくさんいる
わたしが生きてても
どうしようもないような気がする
わたしが死んでも誰も悲しまないんじゃないか
そんなことまで考えてしまったり。
(それはぜんぶ「まぼろし」なのだけれど)
そうなると、まるで自分をナイフで
グサグサ刺しているようで
体感はめちゃくちゃ重いし辛いですよね
このように、自分の価値が
揺らいだような気がする場合は
「価値」という言葉に対する設定が
あいまいになっています。
多くの場合
〇〇次第になっているか
世界的な基準がないもので
誰かと比較して、自分の価値が低いと
勘違いしているかです。
だから
カラダがあること=価値
生きていること=価値
存在していること=価値
にハッキリしてみる
自分を責めたり、自己否定したりして
ズーンとなって辛くなっている時でも
心臓も腎臓も肝臓も
子宮も卵巣も大腸も小腸も
その他の膨大な「わたし」を
つくっている臓器や器官
細胞のひとつひとつは
変わらず動いているし
血液やリンパ液も流れている
んです。
いくらわたしがわたしを
ひどい言葉で傷つけても
なじっても、責めても
カラダはわたしを
一生懸命生かそうとして
今この瞬間も必死に
働いてくれているんです。
わたしが何を感じていようが
考えていようが変わらない。
この事実は
生きている限り
例え地球がひっくり返ったとしても
変わらないこと。
この美しい自然のコラボレーションが
見られるのも、カラダがあるからこそ♡
地球がひっくり返っても
変わらないような事実を
「価値」と捉えていれば
自分を責めても、傷つけても
外側で何が起きたとしても
「価値」はひとつも変わらない。
そう思うと
自分を責めたり傷つけたりして
うじうじウダウダしていることが
すごく勿体ないなぁと
わたしは思いました
カラダがあること=価値
生きていること=価値
存在していること=価値と
どうしても思えない
「とはいえ」と思ってしまうなら
それは
カラダがあること
生きていること
存在していることを
「あたりまえ」と
思えるくらい
豊かなものに
囲まれて生きている
ということ。
その視点を持ってみてくださいね。
同じ銀杏の葉でもひとつとして同じ色や形のものはない。
わたしたち人間もおなじ。
自分責めや自己否定をすることは
「悪い」ことではありません。
人間が本質的に持っている
「よりよく生きたい」という願いから
起こっていることだから。
だから
自分責めや自己否定をする
自分がダメだと
さらにドツボにはまらないでください。
(わたしはよくやっていました。。)
自分責めや自己否定については
まだ伝えたいことがありますので
また書きます
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