悩みましたが、性適合手術前に私の過去について、全てを、ここに置いてから男性としての人生を終えることにしました。
極めて私的な下らない内容です。
しかし、親の育て方で子供は、このような後遺症みたいなこと、不幸な体験を歩むことになる実例として読んでもらえればと思います。

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そして、高校に入学。

ここでも、まだ親からの強制労働と暴力虐待は解けませんでした。暴力に使う道具は、中学2年くらいからビール瓶などもアイテムとして加わりました。
何度かは頭を叩かれ瓶が割れ打ち所が悪く、頭を切ることがありました。
叩かれた瞬間、目の奥に緑色の光が映って暫く消えませんでした。
この頃は、訳の分からない因縁や難癖をつけられて父のフラストレーション解消の道具になっていたと感じます。

そして、前回①でもお話しした奇行事件を起こしました。
 
この時は、本当に無意識状態で、夜中の近所を裸で何回も何日も歩きまわっていたようです。

この当時、私は、父親が車庫を改造自作した、夏は隙間から蚊や蛇が入ってきて極暑、大雨だと雨漏り床下浸水、冬は隙間風で極寒、ねずみも出て、とても1980年後半とは思えない戦時下のような掘っ建て小屋に住まわされていました。
夜は、トイレも使えず庭で立ちション(大も)することを強要されました。
その小屋は、私専用ではなく、物置も兼ねていました。
鍵もかからないため何度も空き巣が入りました。
この物置に青酸カリ類の劇薬も置いてありました。
嫌で嫌で仕方ないし、親戚が来た際には、からかわれていました。親戚も卑怯で父親がいると言わない、私に対して言うんです。こんなボロ小屋に住まわされて可哀想だねって・・。

親や妹たちは普通の家です。
このため玄関とか通らず、直ぐに外に出れる環境でした。

このボロ小屋にも利点がありました。
それは、祖父が雑誌/新聞類を近所から拾い漁ってきて古紙業者に売るようなことをしていました。
集積場がボロ小屋横で、成人向けのエロ本が紛れ込んでいることがありました。
そうです。竹藪に落ちていた無修正の類。
それらをピックアップして、この女の人のようなことがされたいと考えて悶々としていました。
それと私と下半身が異なることへの絶望感も。
親に見つかることを恐れて手元には留めず直ぐに戻していました。
少し工夫をして回収されない悪知恵も覚えました。
それから、男性誌も手に入り、クルマやオーディオの広告を眺めて、大人にさえなれればこんな生活からも脱出出来て好きなものも買えるんだ!という夢を抱きました。
そして広告という紙に異常なほどの収集心が根付き、この広告収集は今も残り趣味となってしまいました。そして持ち家。ボロ小屋ではなく雨漏りもしない、そして自分の部屋への憧れ。
全て実現させました。残りは女子になりたいということ。これも、まもなく実現出来ます。

それと、言い辛いのですが、祖父が拾ってきていたのは、紙類だけではありませでした。
それは、古布です。古布も買取されていました。
この中には、女性の下着や洋服も紛れていました。
でも、これらに手を染めるのはいけないことと考えて触れることはしませんでした。

このボロ小屋住まいから解放されたのは22歳の頃、私が母親に家を出ると相談していることや、親戚が近所の対面からボロ小屋に住まわせておくのは不味いと言い出したからでした。
私は家を出たかったけど、毎回、母親に泣かれ断念しました。

高校1年の奇行事件に戻ります。
6階建の鉄筋アパートの屋上の更に上の給水塔から飛び降りるような仕草をしていたと目撃情報や操車場近辺で目撃があったり広範囲だったようです。父親に、屋上に行ったのか?操車場に行ったのか?と問いつめられましたが、全く覚えていません。
全くの全裸ではなく女性の下着をつけた状態で発見確保されました。無意識状態で祖父が拾ってきた古布類から下着をつけて徘徊したようです。
いま考えると、これは別の人格が現れ行った行為かもしれません。

法律や人のおいたちの観点からすれば、許されることではないし、自分でも不本意です。これって私が悪いことなのか?避けて生きる道はあったのでしょうか?
ずっと悩んでいます。

奇行事件を起こし、母が錯乱状態になったことで父親の暴力から解放されました。
決して私のことを考えてではありません。
このことは、現場に居合わせた人だけで封印されたようです。誰がいたのかは解りません。警察はいなかったようです。
封印されたことで、父親から、このことについて後日ネチネチと問われることは一切ありませんでした。

暴力からは解放されましたが暴言については継続しました。
その後、強制労働もなくなりました。
と、いうか別荘建築も終了段階に入り人足は不要となり、逆に邪魔な存在になったのだと思います。
強制的に連行された労働からも解放されました。

解放されたが、竹林に行く機会がなくなりました。これは素直に無念でした。

続きは②ー23になります。