よもよも

気になった文・言葉/覚書


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2011.2.27

純粋さや優しさから、取り返しのつかないことをしてしまう人もいれば
不誠実でありながら、世間からは糾弾されない人もいる。
何が悪なのか、何が悪人なのか。
型にはめて結論を出しがちな情報から
もう少し想像力の幅をもちたいもの。と改めて。

泣ける。

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想像のレッスン 鷲田清一




なのにどうして、性懲りもなく

あのひとでなければ、いまでなければと思いつめるのか。

それはたぶん、わたしがそこの賭けられているからだ。

恋わずらいが人生いくつになっても治まることがないのは

だれかとの恋が自分がここにいる

その確かな理由をあたえてくれるからだ。

「あなたにずっとそばにいてほしい」

「あなたがいないと生きていけない」

「あなた」という形で

自分の輪郭をきちっとまとめてもらえるからだ。


これを裏返していえば

ひとは自分がじぶんである確かな根拠がみあたらないという不安を

いつもこころの奥深くに抱え込んでいるということだ。

そのことを、恋にはまっている間は忘れられる。


自分の存在が、悶えというかたちで

内からまとまり、相手の像や言葉によって

外からまとめられるからだ。

狂おしいということが、痛いということがその証明になる。



だれかに焦がれている間、やるせないばかりに

せつなさが身を包む。

が、そのせつなさも、そのひとそのものというよりも。

そのひとの微笑みや後姿、脚の組み方、指の冷たさ

といったものに喚起されるものだ。

イメージの断片がせつなさのスィッチをいれる。


ひとの存在そのものよりも、そのスタイルに感応してしまうのだ。

こんどはわたしのスタイル。

つまりわたしの想像力のたちである。

つねにある決まった場面でエロティックな情動が発動しだすのも

想像力にはお気に入りのスタイルがあるからだ。


だれかを心底愛していると思いつめているときも

その人自身をあいしているというより

だれかある対象をだしにして

じぶんのお気に入りのあるスタイル

あるシチュエーションにはまりたがっているのだ

という想いを禁じえない。


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だれもが家族をうっとうしく思い

そこから自由になりたいとおもうと同時に

親密な関係というものにひどく渇いてもいる。

だれかに「あなたの代わりはいない」

と言われたいと願っている。


個人の自立と依存

どちらを欠いてもわたしたちは生きてはいけない。

親密な関係というものをどういうかたちで

個人の人生のなかに、あるいは社会のなかに

設定しなおすのか。

その細心な見取り図を

いまわたしたちは必要としている。


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想像のレッスン 鷲田清一


「写真を撮るということは

世界をモノとして捉えることではなく

世界をモノとなさしめ

現実と呼ばれているものの下に埋もれている

その他者性を掘り出すことである。

世界をストレンジ・アトラクターとして出現させ

その奇妙な引力をイメージに定着させることである」

(ボードリヤール)


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想像のレッスン 鷲田清一


齢を重ね、やがて時がばらけていくということについて

精神科医の中井久夫がとても面白い事実を指摘している。

20歳のひとにとって10年の差は大きい。

それは人生の半分にあたるからだ。

が、60歳の人間にとって、

20歳のときと30歳のときの10年の差は

通ってきた道の1/6である。

そして90歳ともなれば、それらはほぼ同じ遠さであろう。

つまり、人間の記憶というのは、

縦並びから横並びへと徐々に変わっていく。

記憶は、若い間は何がどの年に起こったかが

克明に記憶されるクロノロジー(年代記)のかたちをとるが

やがて、だいたいあの頃というふうに、

前後の秩序だけがはっきりしてくるパースペクティブに移行し

最後は遠近もさだかでない

一枚のピクチュア(絵)になるというのだ。



「偉大な冒険とは、同じ顔のなかに日ごと

見知らぬ者が現れるのを見ることだ」(ジャコメッティ)

たくさんの顔を知っていることが人の「実力」なのではなくて

ひとつの同じ顔のなかから

「日ごと見知らぬものが現れるのを見る」ことこそが

「偉大な冒険」なのだとしたら

記憶が薄れ耄碌するのも悪くない。

その人との切っても切れぬ因縁ではなくて

自由な出会いこそがそこに日ごと生まれるのだとしたら。

ひとはしかし、それを「呆け」としか口にできていない。



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想像のレッスン 鷲田清一


カメラという機械を手にすれば

観念抜きにその見えてないものが

勝手に映るかというとそうでもない。

それは見えるはずのないものまで写してしまうからだ。


見ることと写すこと

見えることと写ることは違う



カメラを持って写すという行為についてもいえる。

カメラを持つ腕の動きへと収斂してくる

さまざまな身体四肢の運動がある。

「狙い」もある。

ところが、その「狙い」の中にも

日常は侵食してくる。

日常についての日常的な視点からすると

コモンスケープの凡庸な写真は有り余るほどある。

日常を写すそもまなざしのなかにも

深く浸透してくるものだからこそ

「日常」の写真は困難なのだ。

それはカメラの背後にも忍び寄り

カメラの「狙い」をも規定してくるからだ。


見ること、写すことへの

そういう「日常」の侵食を免れようとすれば

意味の進入を拒み続けなければならない

「日常」を主題とする写真の多くが

まずは雑多なものを写しながら

どこか深い空白や空虚な印象を漂わせるのも

たぶんそうした理由からだろう。


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想像のレッスン 鷲田清一


日常の知覚は常に運動の中にある

が、わたしたちが眼にとめるのは、記号やモノといった

意味の薄膜に覆われた形象ばかりだ。

「何」という意味にふれ、見た気になって

さっさと通り過ぎる。

だが、そのときわたしたちは、表示位された、

あるいはモノを枠どる意味を見ているだけであって

物を見ているわけではない。

ありふれたモノとしてその意味をかすめつつ

物にふれずに通り過ぎる。

わたしたちの日常は、見ているつもりでじつは

見えていないものだらけだ。


言い換えると

日常とは意味によって枠どられ

しかもその意味をすりきらせたもので充満している。

そしてそれを主題化しようとすれば

その注視するまなざしから

するりと漏れ落ちてゆく。

黙過され、つねに欄外におかれるもの

この分りきったもの

ありふれたものの集積が日常なのだ。


この集積を総体として縫っているもの

それがストーリーだ。

テレビから流れる空話や噂話

空疎な政治談議や仰々しい事件の記憶

人生論や家族・国家・グローバリゼーションといった

大ぶりな観念のしこり・・・


日常はそうした雑多で大ぶりな観念や意味のしこりの中に

紛れ込んでいる。

だからといって、そのしこりを解除し、その覆いを剥がせば

その姿を現すかといえば、ことはそう単純ではない。


そのしこりを編み上げてゆくのが日常そのものなのであり

編み上げたそのしこりのなかにまぎれたまま。

しこりを磨耗させて別のしこりへと編みなおしていくのが

日常だからである。


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想像のレッスン 鷲田清一


わたしたちを内から象っている

暗黙のルールや無数のイメージたち

その一つ一つがどれほど危うい地盤の上に

なりたっているかが見える地点から

<普通>への回路をたどりなおす、

そのことにこんなにも錯綜した操作を

要する時代なのだろう。

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想像のレッスン 鷲田清一


「感情」とは、原理的に「ことば」がとどくことのできない

身体の広大な経験領域に対して

わたしたちがおそるおそる貼り付けたラベルにすぎない。

だが、既成のことばから離脱しようとあがきながら

なおも。わたしたちに与えられたこの「ことば」を

つかうことに賭けなければ、

なにひとつ始めることもできない


これは人類学を専攻している友人

菅原和孝のその熱い研究所「感情の猿=人」の

なかに書き付けた言葉である。



わたしたちの多くは、語りえないこと

理解不能なものに囲まれて

それでも言葉を搾り出す、あるいは逆に

言葉を呑み込むという、

そういう呻吟に耐え得ないところがある。


そして、分りやすい物語、耳ざわりのいい言葉に

すぐに飛びつく。

つねに過剰か過小になってしまうという

言葉との不均衡な関係に押しつぶされて

寝られてもいない言葉を反射的に漏らしてしまう。

想いが窪みというものを失ったかのように。


分らないものが分らないままに

占めるべき場所というもの、

それを容れる余裕がなくなってきたということなのだろうか。


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毎日新聞 2011.2.19

「七転び八起き」 野坂昭如


八百長問題



それにしても、成熟したはずの日本人の良さは

どうなってしまったのか。

神事、国技、伝統、興行、スポーツ。

ぼくたちは相撲をいろんな角度で見ながら

相撲と上手に付き合ってきたのだ。

日本人はいい意味であいまいさを大事にしてきた。


島国であるということは

海に囲まれ、外に逃げられない。

農業、漁業の営みは個人も大切だが

村ごとにまとまって生きなければ成り立たない。

何事も決め付けず、おおらかに備えて

おっとりと世の中を眺める仕組みを

うまく利用してきた。

そこで、ゆとりや風情を楽しむ気風が生まれた。



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