第一講義 VOL19 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。




私達の世界を作り上げた存在が創造主ならば
其の人間の想いが作り上げた其の社会の中において
神と言われる存在が完全である事は道理です。


全ての知識や法則や価値観を
其の存在が作ったのですし、言ってみれば
当初100点満点の解答を用意してくれたのが神といえます。


だからこそ、父なる神は完全であると
アダムスキーも語ったのだと思います。


しかしその被造物である私達この社会の人間は
決して完全を目指せる状態ではなくて
まだそのための道を歩き始めたばかりともいえます。


でも未だ殆どの人間がそんな自分の実態に気がついてはおらず、
独自の価値観を持って自らを完全であるかのように過信しているのです。


そのために自分では理解不能なものに対して
不安や恐怖や嫌悪感を持つ事にもなります。


では私達はどのように、その個人的な真理なるものを
少しでも創造主の模範解答に近づけていく事が出来るのでしょうか?


それは何度も繰り返すように、「何事をも身をもって体験する事」


更にはその結果が齎した状態を注意深く観察し、
それが全体にとって改善になっているのかどうかを
分析しては行動するように努力する事だと思います。


私達にとって大切な価値観は
何よりも体験によって培われます。


その体験で自らの精神の進化の役に立つと認識できた事
進化の妨げになると認識できた事をそれぞれ捉え、


自らの真理、そして戒律として
心に置き換える大切なのだと思います。


そしてその独自の真理と戒律は自分こそが意識すべきもので
他人に強要してはいけないものであるということ。


私達は誰もが自分の尺度で他人を量る癖がありますが
ここでの定義を考えれば、


自分にとっての真理は
他人にとっての真理や戒律に成り得ない事もあると
認識できるはずです。


私達のすべき事は自らの魂の進化をはかるために
多くを体験し自らの価値観をより創造主の意識に近づける事であり


そのための体験も人それぞれですし
置かれている環境や、魂が過去から学習してきた内容も
異なるからです。


そして私達が意識すべきはまずは自分自身の進化であり
そのために学んだ事で他人を量り裁く事ではないのです。


イエスキリストも聖書の中で語っていました。


「他人を裁いてはいけない」


「他人を量ると自らも量られることになる」のだと。


これは私達の意識の在り方を示したものでしょうし
一方では因果の法を意識したものであるはずです。


今の私達にとっての戒律は常に個人的なものであって
それは必ずしも絶対的なものではないということ。


その事をしっかりと意識していきたいです。


アダムスキーさんは私達地球社会の人間の存在を宝石の原石に例えていました。


「元々はコケや泥のついた様な存在であっても
それは転がって磨かれていくうちにどんどんと
コケや汚れや角が取れて輝きを増していくのだ」と表現してです。


私達は誰もが創造主の子であり神の宮殿でもあるからこそ、
その頭角を示すためにもあらゆる体験をすべきなのです。


時には苦しい思いをし、時には心地良い思いをし、
更には失敗をしては、
私達はその中から何かを学んでいくのです。


私もそうであるように、多くの方々が
どうしても頭でっかちになりがちだと思います。


知識が優先して精神状態がそれについていかないのです。


それを体験を通じて知恵に変え真理に変える事で
私達は誰もが精神性を高めていく事ができるはずです。


そのためにも色んな知識と同様に
あらゆる体験を重視すべきなのだと思います。


折角学んでも其の尺度を他人に無理強いすれば角が立ち
争いの原因にもなります。


しかし独自に学んだ戒律と価値観を他人に無理強いしなければ
争いは起こらないはずです。


戒律は私達個々の人間の精神性を高めるためにこそ
持つべきであると言う事。


私達の社会全体の行動指針を規制する法律とは異なり、
戒律は自らを高めるためにこそ存在していると言う事を
強く意識して頂きたいと思います。


そして私達が今学ぶべきは神の戒律であると言う事
是非意識していただきたいです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】