真・宇宙の法則 VOL1 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


久しぶりのブログの更新です。
漸く引越しが終わって落ち着く事になりました。


新天地では、しっかりと真理を見据えて
誤った事を伝えることなく


そしてこの社会に不安と恐怖を齎すことなく
かつ誰も悪者にしない事を意識掛けながらも


誤りは誤り、正しい事は正しいと言う姿勢を
貫いて行こうかと思います。


勿論基本姿勢は誰もと調和できる
そんな姿勢を目指して行きたいと思っています。


以前と異なりブログでも批判をする事は無いと思います。


と言っても臆病風に吹かれたのではなくて
本当に見えない意志にたいする理解が深まったのだと
認識してくれればと思います。


実は今度、アダムスキーの生命の科学を要約した形で
独自の解釈をまとめ、それを有志に届け様かと思います。


50年前にはアダムスキーがGAP組織のリーダーや
身近な側近に配っていた小冊子が後に日本では一冊の本になりましたが
私も小冊子を作りそれを兄弟姉妹に届けたいと思います。


と言っても単にコピー用紙に印刷しただけのものを
束ねるだけです。


その内容はアダムスキーの様に深みを語るものではありませんが
私独自の視線で判りやすく、そして過去の記事の内容を
意識して書いたものとなります。


希望する方は、遠隔の方であれば、自分の今現在の
”生命”や”生命の科学””宇宙の法則”に関する
理解をレポート用紙一枚程度で良いので書いて
私宛に送ってください。


電話をして頂ければあて先をお知らせいたします。

携帯電話 090-2557-6937 です。


(来年1月10日以降、時間は平日10時~18時、
土日は12時から14時程度の間でお願いいたします)


近隣の方で希望者は直接私に直接会って今の理解を伝えて貰う。
都合のつかない方は遠隔地の方同様に
レポートを書いて送って頂ければと思います。


何でそんな偉そうな事をするのかと言われそうですが
そうではなくて、冷やかしを防止するため

そして私が皆から真理の欠片を与えて頂くための
物だと認識してくれればと思います。


講義の内容はアダムスキーの著書、生命の科学に対応して
12回程度のものとしようと考えています。


今現在は漸く一講義目が下書きを終えたところです。


発送までにもう少し時間がかかるかと思いますが
私の過去の記事含めた生命と創造主への理解の
総まとめにもするつもりでいます。


今では私のブログを読んでいる方も少ないでしょうが
私は地道に兄弟姉妹を増やして
この社会での小さなキリストを目指して欲しいと願っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

久しぶりの記事は、やはり私達にとっての真理である
宇宙の法則です。

過去において取り上げた内容を
今の理解に置き換えて記事にしてみます。


今日はかなり長いですが私の兄弟姉妹は必読でお願い致します。


この価値観はこの世界の殆どの人間が理解できてはいないものでしょうし
私はそれを他人に強制する気はありません。


しかし恐らくはこの社会の中の一部の人間達は
この生において記憶を持った転生へとたどり着く事になるでしょうし


それを望む人間のためにも
知っておいてもらいたい事を
記事でも取り上げて行きます。


その内容は私の寝言と思って頂いてかまいませんが
私は”宇宙の法則”には触れ続けたいと思います。


生命の科学、イエスの神の国の奥義の根底に存在する
真理としての宇宙の法則に関して


以前の記事を今の私の価値観に置き換えて
以前よりも間違いの少ない状態でもう一度取り上げて行きます。


内容は以前のものを一部修正した状態です。


限りなく真理に近いものとして、
そして今現在の私の価値観としてそれを表現させて頂きました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


アダムスキーの著書を読んだ事があるでしょうか。


その中で
"スペースブラザーズ"と名乗っていた
太陽系惑星の人間達の中の有志の集った組織が
取り上げられていました。


彼らの話によればイエスキリストだけでなくて
釈迦もイエス同様に、彼らの仲間であり、


地球人を誤った精神状態から正しい魂のあり方へと誘導するために
地球に派遣された人間であるという事でした。

その片鱗を感じる内容を以前同様に取り上げます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


1 名前:真仏教徒 2009/12/02(水) 00:22:21 ID:3twSUTWZ


言うまでもなく「経典」(きょうてん)とは
仏教の聖典とされるものである。


当初は釈尊の死後3~4度にわたる結集と呼ばれる集会にて
教えがまとめられ、それは出家信者に口頭で伝えられた。


文字に起こされた経典と呼べるものはやっと紀元前後、
つまり開祖である釈尊の死後300~400年後からのことである。


そのうち内容で分類すると、釈尊の言葉を記録したとされる「経」、
規範である「律」、経典の解釈である「論」の3種に分けられる。


しかし、結集の3回目が行われた時点で、
すでに上座部と大乗に分裂しており、
おのおのの説くところは相違があったとされる。


そして全ての経典は「如是我聞」
(にょぜがもん、つまり、わたしは釈尊からこう聞いた)
という枕詞をつけることにより、


自らの宗派、団体が創作する「偽書」に
釈尊の言葉であるという正統性をもたらせた。


現在最も古い経典と言われるパーリ5部ですら、
釈尊の直接の言葉はその内の数行に残るのみだろうという
研究結果すらある。


日本での経典(特に経や律)の権威は
「命をかけて伝えられた、はるか古代より西方からもたらされた
ありがたい釈尊直々の言葉」とのものであることを考えると、


それが偽書であったことの衝撃は仏教界にとって計り知れない。


我々一民間の仏教徒はこのような事実を正面から受け止め、
まず「全て経典は偽である」と認めたのち、


既存の経典やそれに立脚する様々な仏教団体の権威を
否定するところから仏教の復興を望むべくしかない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
引用ここまで。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

実は仏教もキリスト教同様に
釈迦の死後に弟子により勝手な解釈が加えられ
その教えは改竄され、その権威が利用されてきた可能性が高いようです。


つまり現在釈迦の教えとされている内容の多くは
その弟子や釈迦の死後の仏教を学んだ人間の独断により
付け加えられた可能性が高く、


釈迦の教えはほんのわずかな言葉が
残っているだけであると言うことのようです。


国家が国民支配のために
キリスト教を利用するためにその内容を改竄したように
仏教でも釈迦の教えは歪められていた。。


では仏教の本当の教えとは何だったのか?


仏典に集約されていると考えられていた内容が
釈迦の教えではないとなれば
釈迦の真実の教えはどのようなものだったのか??


その答えをこんな書き込みで見つけました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本人の解釈を割愛させて頂いています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXXXXXXX :2011/08/28(日) 08:40:20.96 ID:/6g9DvGd

―生きとし生ける者は幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害するならば、


その人は自分の幸せをもとめていても、
死後には幸せが得られない―(真理のことば)


森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、
日に一食を取るだけであるが


過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、
未来のことにあくせくすることもなく、
ただ現在のことだけで暮らしている 


今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、
気もちよく起き上がった


煩悩の汚れのなくなった覚った人に
われらは見えたからである


われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。
光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう


かれらは快楽を求めないからである~かれこそ実に最上の人である―


すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、
これが仏の教えである。


わかち与える人には功徳が増大する


そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない
誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ


ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、
もしも飲食豊かな富んだ家に住んでいるならば、


信あり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるならば、
これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない


苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、
万物に対して平等である


自分を楽しませ、喜ばせ、父母~妻子~友人~楽しませ、喜ばせ~


愚劣な人が富みを得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。


健き人・智慧のある人は、富を得たならば、
自ら用い、またなすべきことをなす―


究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ―

 
母が己が独り子を命を賭けても護るように、
そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の慈しみのこころを起こすべし~


この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ―


一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、
罪過は存在しない。


かれに過失(道から外れること)は存在しない―
 

信仰心あり、学び修めた賢明な人は、
食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ~


貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、
乞う人々に施しとして与えよ―
  

この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退ぞけ、
他人が与えようとするのを妨げる人々、


かれらは、地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる―


悪い行いをした人々は地獄におもむき、
善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。


しかし他の人々はこの世で道を修して、
汚れを去り、安らぎに入るであろう―

----------------------------------------------------------------
ここまでです。
-----------------------------------------------------------------

気がつく人は気がついたかと思いますが、
釈迦の言葉はイエスの話に通じるものが多いようです。


人間のあり方を語ったのが聖人達ですから
当たり前と言えば当たり前ですが


不思議と共に語っているのは
厳しい精神修行ではなくて”道徳”の実践です。


まず、


”暴力で生き物を害する人間は死後幸せになれない。。。”


つまり争いや戦いを否定する内容で、
その行為が死後の運命に影響を及ぼすと言っているわけです。


これは勿論イエスキリストの教えに繋がるもので
争いごとを悪しきものと捕らえる意識です。


”過去を思い出して嘆くのではなく
未来に不安を感じて生きるのではなく
今を懸命に生きろ”と言う趣旨の事を話していますが


これはイエスキリストの
”自分の命のことで
明日何を食べようか何を着ようかと心配してはいけません”


(例えは難しいですが、余計な不安を持たずに今を精一杯生きろ
そうすれば創造主の法は自らに力を与えてくれると言う事)


と言う言葉の趣旨とも同じものです。


”物を所有せず楽しみを食う。。
悪しきことをなさず、良いことを行い心を清める。。。”


物欲を否定し、勧善や人としてあるべき姿を語っているのも
イエスキリストと同様です。


”苛酷なることなく、貪欲なることなく、
動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である”


これは人として生きるにあたっての
心構えを表していると思います。


必ずしも辛い思いをする事が
精神を向上するきっかけとなるわけではない。


エゴから生まれる煩悩に振り回されたり
肉体を持つが故の欲求に振り回される事なく生きる。。


そしてその意識は全ての物に対して
わけ隔てなく平等に向けられ差別や偏愛はいけない。。。


これもイエスの聖書の教えに通じます。


” 信あり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるならば、
これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない”


信とは信念と言うよりは信仰に近い意識だと思います。
(富や食べ物を)持っている人は持っていない人に分け与えれば
天国に行けるというイエスの教えにも通じるものでもあります。


(イエスは救われたいと願う金持ちに、
あなたの富を分け与えろと話していました)


そして温かい心と言うのは勿論人間として
他人に対する思いやりを持っていると言うこと。


これもイエスの教えに繋がりますね。。


”自分を楽しませ、喜ばせ、父母~妻子~友人~楽しませ、喜ばせ~”


これは”愛せ”と置き換えると
自分を愛すように親・兄弟・隣人を愛せと言う
イエスの教えと同じものになります。


”母が己が独り子を命を賭けても護るように、
そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の慈しみのこころを起こすべし”


これはイエスキリストの無償の愛、慈愛の精神と
まったく同じものです。


”貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、
乞う人々に施しとして与えよ―”


旅人にも施せとは聖書にもイエスの言葉としてありました。


何から何まで聖書のイエスの言葉とそっくりな
釈迦の言葉。


両者の教えの不思議なほどの一致は
一体何を意味しているのでしょうか。


「元々イエスキリストは仏教を学んだのだから
釈迦の教えと似ているのだ」


などとは言わないでください。


確かにイエスは密教を学んでいるようです。


アダムスキーもチベットで学んでいますし
ブラザーズの伝導者は地球の道徳を学ぶことが必須なのかもしれません。


そして、争いごとは避け、誰にでも同じ様に思いやりをもって接し
自らはエゴや欲に捉われる事無く生きて
健やかな心で善行をすれば善い所に生まれることができるというのが
その教えのようです。


釈迦のこの教えは、キリスト教の教えと
全くと言って良いほど同じものです。


そしてこれは間違いなくブラザーズ達が従って生きている
”宇宙の法則”に他ならないと思います。


と言うことは、善行をして生まれる場所とは
霊界としての天国ではなくて


おそらくはブラザーズ達の住んでいるような
意識の高い人間達の世界。。。


ブラザーズが言っていたように
釈迦はブラザーズの教えをこの地球で説いてくれた
彼らの同胞であると言う事が、


これらの判り易い引用からもとても良く理解できました。


延々と長く続く仏典と、その中の細かい規範や戒律の多さに
正直言えば釈迦がブラザーズの同胞であると言う話が
今ひとつ理解出来ないで居たのですが

この様に元々の教えを比較する事で
両者が元を辿れば同じ思想を源流としている事を
理解する事が出来ます。


釈迦が語っていたものも、イエスが語っていた物も
共に人間として従うべき道徳であり
ブラザーズの主張している宇宙の法則、神の摂理そのものです。


”悪い行いをした人々は地獄におもむき、
善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。”


釈迦が語っていた天国と地獄の概念は
そのままブラザーズが地球人に対して使用するために創出した概念。


ここでの地獄は脅し文句であり、
その対象は灼熱地獄であると思われていた水星の例えであり
実際には存在はしてはいない。。


一方、天に生まれると言うのは勿論ブラザーズの住んでいた
火星や木星や金星や土星の事を示していたのだと解釈できます。


最後の

”しかし他の人々はこの世で道を修して、
汚れを去り、安らぎに入るであろう―”


の一文が良く判りません。


可能性とすれば、汚れを去りと言うのは
”前世の記憶を消して”と言う意味かもしれません。


とにかく善行を天国(精神性の高い惑星)への転生という
魅力ある話で誘導し、


悪行に関しては脅しとしての地獄を語ることで抑制し
人々の意識改善を計ろうとした。。


地球の宗教は、全ては”宇宙の法則”に繋がるものである。


私はその可能性を強く感じましたが
皆さんは如何でしたでしょうか。
---------------------------------------------------


新約 宇宙の法則 VOL1 後半


---------------------------------------------------

ここからが本題です。


最近何かをしていて
心が清められた体験をしたことがあるでしょうか。


一番ありそうなのは大自然の中に出かける事で
爽快感を得るような場合ではないかと想像しています。


恐らくは私達は其の場所で”自然との調和”なる物を
無自覚のうちに体験しているのであり


実はそんな意識こそが私達を宇宙の摂理に
いざなう物である事に気が付くべきなのです。


私が爽快感を感じたのはやはり、
アダムスキーに関連する書籍をまともに読んだとき。


更に其の中でもブラザーズやマスターの語る言葉は、
理解し難くもありますが、


宇宙の摂理を語っているために
心の奥深くしみこんで来るものがありました。


今日はスペースブラザーズのマスター(指導者)の話から引用します。


判りにくい言い回しとなっていますし
私達には其の前提とされている事が理解できていないので
そこから説明をしたいと思います。


旧アダムスキー全集一巻より引用です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「友よ、人間がどこに生まれようとも、つまりどこで生きることを
選ぼうとも、全ては兄弟姉妹であることを彼らに指摘し続けなさい。


国籍や肌の色などは偶然の事に過ぎません。


肉体は仮の住家に過ぎないからです。


これらは、永遠の時間を通じて変化します。


あらゆる生命の無限の成長において
結局は誰もが全ての状態を知るようになります。


”無限者”の果てしない広大さの中には
多くのフォーム(形あるもの)があります。


あなたは私達の宇宙船内を二度見学して、
地球の大気と言う限界の外側でこの事をみています。


こうした物体には肉眼には見えない非常な微粒子から、
無数にある、最大の惑星や恒星にいたるまで大きさは様々ですが


すべては”一つの力”と言う海の中に浸っており
”一つの命”によって維持されているのです。


あなたの世界では目に見える多くのフォームに名をつけています。


人間、動物、植物などと。


名称と言うものは人間の知覚作用に過ぎませんが
一方、この(宇宙と言う)無限の海の中ではあなた方が用いている名称は
無意味です。


”無限なる英知”はそれ自体を名づける事はできません。
それは完全であるからです。


そして全てのフォームはこの”完全さ”の中に生きてきましたし
今後も絶えず行き続けるでしょう。


多くのフォームの中でいわゆる人間が
地球上で唯一の英知を持っていると称していますが
これが間違いなのです


地球でもこの宇宙の中のどこでも
ある程度英知を表現していない現象は存在しないのです。


万物の”聖なる創造主”が創造物の表現者でもあるからです。


つまりそれは創造主の現われなのであり
創造主の英知の想念の表現なのです。


人間としての貴方はこれ以上でもこれ以下でもありません。


万物を支えている生命そのもの、
そして万物を通じて自らをあらわしている英知こそ
聖なる表現なのです。


この事を知らない殆どの地球人は
自分の個人的な自我の外にある多くの物事に対して
酷く非難をしており、


万物が自己の目的を現していて奉仕のために創造されたものだから
其の奉仕をするのだと言うことに気が付いていません。


他を裁くことの出来るフォームは存在しません。


全てのフォームは”唯一の至上者”に対する奉仕者にほかならないからです。


存在する全てのものを知っている人は居ないので
知られるはずの全ての事を知っている人は居ません。


しかし喜んで奉仕する事によって
万物は自分に英知を与えてくれる源泉に対する理解が増大するのです。


この英知とは自分達を存在させている同一の生命力です。


この完全な概念によれば、あらゆる現象は多くの色や多くの種類が
互いに調和して咲いている広大な庭園の中の美しい花に例えられます。


どの花も他の花の現象化を通じて自己を感じるのです。


低い花は背の高い花を見上げ、高い花は低い花を見下ろします。


様々な色は全体にとっての一つの喜びです。


成長していく状態は各自の興味を満たし
達成しようと言う欲求を満たします。


一日かかるにせよ一世紀かかるにせよ
内部に潜んでいる美しさが展開するのをみれば
企画されたものが次第に色づいて、


他の全てに対して芳香を放ちながら現象化していきます。


万物は他に奉仕することによって
自己に栄光を与え、変わって他の全てから奉仕を受けます。


其の大きな美の広場にある全ては
与え手であり受けてでもあり”最高者”からくるメロディーの全てを
流れさせる容器です。


このようにして、王座の下で奉仕するものもあれば
其の上で奉仕するものもあって
すべてが其の周りで奉仕します。


万物が他の全てと調和し、奉仕の特権を与えられて
喜びのみを現すのです。


同じようにあなたが人間として知っている人類は
地球で生活をするにあたって生き方を学んでいれば良かったのです。


しかしこのレッスンにおいて(地球の)人間は失敗しました。


もしそうでなかったらあなた達の地球は喜びの庭、
奉仕しようという絶え間ない欲求の庭になっていたことでしょう。


しかし人間は理解力の欠乏のために
地球上の存在の調和を破壊しました。


彼らは隣人に対して敵意を持って生活し
心は混乱して分裂しました。


まだ平和を知りませんし真の美を見ていません。


物質的な達成をどんなに誇ろうとも
人間はまだ地獄に落ちた塊として生きています。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここまで
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


かなり抽象的で難しい表現となっていますが
判り易くするために


おこがましい話ではありますが
私が独断と偏見で説明をしたいと思います。


私たちの周辺には私達が気がついていないだけで
見えない力が常に働き続けていて
それが私達にあらゆる影響を与え続けていると言う実態があります。


例えば物理法則、そして科学的な反応含めて
私達は見えない法則の世界で生きていて
そのことに気がついていないだけのようです。


そしてその力は私達個々の人間にも見えない影響を
与え続けているのです。


私達が運命とか因果と言っている様な物がまさにそれで
私達はそんな実態を知らない状態で生き続けています。


そんな私達が本来守るべき規律が”宇宙の法則”です。


私達は”大いなる意志”が
作り上げた世界に住んでいるわけですから


私達は其の力の源となっている存在の意志に沿って生きる事が
求められていると言うこと。


そしてその創造主は、全ての創造物、
創造主の意志の現われとしての全ての生き物が(本当は無機物も含む)
当初の予定通りに調和を持って生き続けてくれる事を願っているわけです。


ここでマスターは神への奉仕と表現していますが
全ての人間が神の摂理に従って調和しつつ生活してくれる事を望んでいると言うことです。


私達は神の予定している通りの存在へと
変わっていくことを求められていると言うこと。。

そして創造主や万物に対しての奉仕を意識して生きていけば
自ずと生命や法則に対する理解を深まるようです。


私達の生きている目的は万物との調和であり、進化であり、
創造物が共に奉仕し合う事ですから


目的を果たす能力と意思の無い存在は
自然と淘汰されることになります。


これが魂の消滅を意味する第二の死です。


と言ってもこの創造主はとても寛大で
其の機会を長いスパンで設けてくれていて


魂のエネルギーが切れるまでは
例え不調和で無奉仕の存在でも
其の存在を消し去る事もありませんし


其の間に創造主の意識に叶った生き方をするようになれば
再びエネルギーを受け取り存在し続ける事が出来るようになるという
そんな仕組みを作り上げても居るようです。


勿論それが出来なかった魂はバッテリーが切れると同時に
転生も不能になり、消えて無くなると言う事ではあるようです。


しかしそんな人間が増えるたびに天使達はこの社会へと介入し
私達の意識を正しい方向へと誘導し続けて来てくれたという実態があるようです。


マスターによれば、この私達の存在は
神を天に奉った状態で神とは別個に存在しているのではなくて


私達は”神”と呼んでいる存在の想念でもある
巨大なエネルギーとも言える物の中で


其の一部を魂として持った状態で
存在していると言う事です。
(四次元と私達が呼んでいる物です)


つまりはこの宇宙全体(神の創造物)を神の肉体に例えれば
(実際は神の想いによって象られた空間ですが)

私達一人一人の存在はその神の一つ一つの細胞でもある事になります。


それが神の意志に反すると言う事は、
私達はがん細胞や腫瘍のごとく主人の体を蝕んでいる状態に
あるのだと言う事になってしまいます。


私達人間であれば、其のことに気が付けば
当然其のがん細胞を取り除こうとします。


しかし神はそんな私達をも見捨てる事なく
その癌と化しそうな私達でさえ
正常な状態へと導こうと誘導し続けてくれているのです。


創造主の想いが無限の宇宙空間の全ての創造物の進化と調和である限り
私達この社会の人間もその法則に従う事が望まれているわけですし


そうなる事によって私達は今まで得る事のできなかった
真の平和や調和を感じる空間を実現する事になるのだと思います。


スペーズブラザーズの世界では、
人間同士は勿論の事、人は自然や動植物とも当たり前のように
調和をした暮らしをし続けているようです。


全ての人間活動が自然をも省みた状態で
その調和を図るように実現され


そこでは全体を見据える意識の中で
人々が自然と共に暮らしているのだと思います。


マスターが語っていたように
極端な話をすれば、全ての創造物は神が美を追求した時に
其の調和を考えて創造した神の作品の一部なわけです。


その意味で其の神の分身同士の間には
上下関係もありませんし本来は優劣も無い事になります。


全てはそれぞれの役目を果たして全ての存在と調和してこそ
神が求める美が完成する。。とでも言えば判り易いでしょうか。


人間同士だけではなくて、
人間と動物と植物、さらには昆虫などが
一定の調和をもたらしている姿。


それこそを神が求めているのだと言うことのようです。


ブラザーズの社会において全ての職業が同等に評価され
其の間には上下関係が無いと言うのは、
そんな意識をそのまま実践しているからだと思います。


アダムスキーは家を作り上げる時の話を例えとして
其の事を説明していました。


完成した美しく塗り上げられた立派な家は
それまでにいくつもの工程を経て作り上げられます。


地球で言えば、基礎を作る人間が居て
本体を作る大工が居て、壁に塗装する人間が居て
外壁を作るのであればレンガを積む人間が居ます。


完成した家は、そんな人間達全員が居たからこそ
出来上がったものであり
全員の奉仕の結果が、家という美を表現した事になります。


其の中の誰かが存在しないと
其の調和は完成されませんでしたし
それぞれの役割は皆同じ様に尊敬されるものであると言うことです。


全ての作業や仕事は互いに関連しあっていて
それぞれが独立して存在しているわけではないと言うこと。


そしてその中の何かが抜けても社会は成り立たないことを
彼らは理解しているのです。


私達はその事を理解して
お互いを尊敬しあう様な人間になることを
求められているのかもしれません。


ブラザーズの社会では
皆がエンジニアであり研究者であり労働者のようです。


そして其の全員がお互いを尊敬しあい
神の法則を意識しながら神への奉仕者として
日々の生活を送っていると言うことです。


神を信仰しろと言っても、
勿論、朝から晩まで賛美歌を歌って
神に奉仕し続けろ言う意味ではなくて、


神の望んでいる生き方があるのだからそれを実践しなさい
と言うのがブラザーズの生き方であり、
宇宙の法則であると言うことです。


そしてそれに叶った生き方をしていれば
私達は永遠に存在し続けることが出来る。


記憶を持った転生を繰り返し
それを実感する事も出来る。


しかも限りなく神に近い存在へと変貌していくこともできるのです。


神がその想いをもって理想とした存在へと
私達は地道な進化を遂げていくことになる。


これこそが宇宙の法則なのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達、地球人が一番勘違いしているのは
自分達は偶然この環境に生まれてきた存在であり
地球は生命体が偶然生まれた奇跡の星であると言う意識です。


そしてその奇跡に感謝しながらも
自分の人生は自分のために
自分勝手に生きて良いと考えているようなところだと思います。


そして一度きりの人生なのだから
自分のやりたい事を懸命にやって
死ぬまでに悔いのないような人生を送りたいと願っても居ます。


そのような意識を持てば、誰よりも幸せになりたいとか
この人生を有意義にしたい、
死にたくない、長生きしたいと言う自己意識ばかりが優先し


その結果、自分の立場ばかりを向上しようと言う意識がめざめ
時には他人との闘争にもつながります。


楽して得をしたいと思えば争いも起きます。


そして自分達の本当の存在理由を知らないが故に
他人とも自然とも不調和を生み出していると言う事になります。


しかし神が意識し作り上げた仕組みは、
誰もが万物に対して奉仕する事で、


今度は其の全ての物が個人に奉仕を返してくれると言う
万物との調和を予定した物のようです。


それが実践されれば、社会は良い想念で満たされて
調和の中で美をも追求していく事も出来て
自らも幸せになれるのです。


直進的に自分の幸せを望み、そのためだけに活動することは
実は長い目で見れば大きな損をする事になるようです。


不調和が意識の低い想念を次から次へと生み出し、
エゴが更なるエゴを生み出しているのですから、


ブラザーズの社会を天国と見立てれば
この社会は生き地獄と化しても居るわけです。


マスターはまさに其の事を指摘していました。


私達は自分達の社会を天国にも地獄にもする事が出来る。


そして天国に住むか地獄に住むかを
選択する権利は誰にも平等に存在している。


”宇宙の法則”に則って生きるも
それを無視して生き続けるも全て貴方次第です。


ただ、この社会の実態を知っている私達は
この法則に従って生きなければならない。


その事がこの社会を救うことを理解しているからですし
それがこの社会を真の天国へと変える事に気がついているからです。


私達の手で、この社会を天国へと変えていきませんか。


そして真の命へと進み、
記憶を失った転生のループから卒業して行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


      
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


例えば農業をしている人間は
無意識に作物に奉仕しているようなものだと思います。


農作物を愛情もって育て上げ作物に奉仕する事で、
今度は其の農作物が自分達の生活のための
糧を与えてくれることになる。


そう捉えることが出来ます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”宇宙の法則”
何となくでも理解していただければ嬉しいです。


私は何となく自分の役割を自覚しました。


私達の人生のその全ては単なる偶然ではないのだと思います。


多くの人間が生まれてくる時には持っていたであろう
その時の生での役割や課題、


私達はこの過酷な社会の中でもまれる内に
その事を全て忘れてしまい、
思い出せないでいるのだと思います。


宇宙の法則の実践とも居える内容を地道に広めて
この社会を変えていく事を目指してみませんか。


簡単だと思います。
それは基本的には”道徳”を表現するように
勤めれば良いからです。


自らの行動で他人に見本を示す。
そんな生き方を意識してみたいです。


勿論他人にその価値観を無理強いする事も
自分の価値観で他人を裁く事も無しにです。


一人一人の地道な進化が
この社会の平和へとつながっていく。


その事を私達は理解すべきです。



私や兄弟姉妹は
記憶を持った転生へ進む事を目標として生きて行きませんか?


そしていつも語っているように
出来れば宇宙空間において私達の卒業式を、実現したいものです。


例によって私の大きな寝言でした。