ちゃっちゃくちゃら~
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

【書評】『憤死』綿矢りさ

『憤死』綿矢りさ







全4編収録の短編集。



タイトルを「情死」と見間違えたのは、自分だけ?

あと、なぜ表紙(及び背表紙)は、ピンクの丸ゴシック体?

よく見たらハートもついているし。





1編目の『おとな』。

語り手の「りさ」の、自身が持つ最古の記憶(四歳)と夢(五歳)について。


子供時代に奇妙な出来事に遭遇し、当時子供なりの折り合いをつけたものの、なんとも言えない「居心地の悪さ」「気味の悪さ」を払拭することもできず、それを大人になった現在も覚えているというのが興味深い。(しかも、わずか全5頁の超短編)

子供の頃の出来事なのに、今でも鮮明に記憶に残っているものってありますよね。

しかも、すごく「ポジティブ」(嬉しかった)もしくは「ネガティブ」(悲しかった)というものではなくて。突き詰めて考えると、(子供なりに)目には見えない「得体の知れない何か」の存在を敏感に感じ取っていたような。


まるでエッセイのような雰囲気に「ひょっとして実話?」と思った読者も多いのでは?


“ねえ、おぼえていますよ。ほかのどんなことは忘れても、おぼえていますよ。”

というのがなんか怖い。



2編目の『トイレの懺悔室』。

小六の頃の故郷での地蔵盆の記憶。遊び仲間のおれたち四人は、西瓜につられて、近所に住む親父の洗礼ごっこに付き合うことにする。


ひぃーっ! 蛾についての描写が……。


3編目の『憤死』。

「私」は、自殺未遂した小中学校時代の女友達「佳穂」を興味本位で見舞いに行く。


収録作中唯一の(いわゆる)綿矢さんらしい作品。

1文目の“興味本位で見舞いに行くことにした。”に吹きそうになる。


同じ「クラスの余り者」という、ほとんどその点だけで友達になったような二人の関係は、「親密」でも「平等」でもない。

うさぎ小屋の前でストレスを爆発させる佳穂を見た私は、“へぇ。ただの高慢ちきだと思ってたけど、やるじゃない。”と感心する。
(小学生の持つ感想ですよ。あと、よりによって、ストレス耐性の無さでは定評のある「うさぎ」の小屋の前で……)

学生時代には、海外留学を経て「方向性」が固まりつつある佳穂と会った私は、失望と期待を抱く。(期待を抱くあたりの人の悪さが綿矢さんらしい)

自殺未遂に至るまでの経緯を聞きながら、私は佳穂の本質である「高慢さ」と「無邪気さ」を再認識する。

周囲を圧倒するほどのエネルギーを持て余す(それ故に周囲に受け入れられことはまずない)佳穂と、それを冷静に(冷ややかに)見つめる私との「対照性」と「距離感」が面白かった。



4編目の『人生ゲーム』。

小学六年生の「おれ」「コウキ」「ナオフミ」の三人がコウキの家で「人生ゲーム」で遊んでいると、コウキの兄の友達らしき人物が現れ、ボードに黒ペンで「丸」をつけていく。その十年後、ある事件をきっかけにして、忘れていた記憶がよみがえる。


綿矢さん、こういう話も書かれるんですねぇ。

(「世にも奇妙な物語」っぽい話だな)と、誰もが思ったんじゃないかな?

設定自体は典型的な「世にも奇妙な物語」の1,2話目タイプですが、ラストは「世にも~」の最終話のような余韻のある結末。

(人生を語るには、著者はまだ若すぎるかな?) という気がしないでもない。



作風や方向性がそれぞれ異なる4編ながら、最初の『おとな』のインパクトの強さが他を圧倒していた印象。



とりあえず、電車内でお読みの際は、ブックカバー推奨です。



Android携帯からの投稿

小林賢太郎さん他お知らせ

明日26日(日)、

NHKーBSプレミアムにて

22時50分~23時49分

『小林賢太郎テレビ5』

が放送されます!




個人的には、

来月6月16日に『P+』(北九州芸術劇場)観劇。

かなり良席♪



舞台繋がりで言うと

さらに翌月7月28日に

NYLON100℃『わが闇』(北九州芸術劇場)観劇。

こちらも良席♪



どちらも北九州芸術劇場チケットクラブ様様です。



Android携帯からの投稿

【書評】『望郷』湊かなえ

『望郷』湊かなえ







瀬戸内海に浮かぶ、日本で唯一「一島一市」で運営されている島、白綱島。
市制55年を迎える今年、白綱島市は対岸本土の市への吸収合併が決まっていた。
かつて駆け落ちして島を出た作家の帰郷、父親の失踪後間もなく現れたおっさんの思い出、東京の有名テーマパークへの憧れと複雑な感情、帰郷した若手歌手を襲う地元の洗礼、台風による浸水被害が呼び覚ます幼い頃の親友との思い出、いじめ問題に取り組む小学校教師の頭によぎる亡き父の記憶。
島を出た者、島に残った者、それぞれの胸の奥にしまわれていたはずの過去が、再び輝き始める。





珍しく、湊作品のレビューが続きます。

実は、間に別の作品を読んでいたんですが、諸事情で読了前に図書館の返却期限が。

その本はすでに購入済みなので、落ち着いてから読みます。(これが実に面白いの! と無駄にハードルを上げておこう)



さてさて、例によって前情報なしで読みましたが。

この『望郷』、短編集だったんですね。

図書館予約の際にある程度概要は調べたものの、あれから3ヶ月くらい経ってますからね。



まず、短編集であることにびっくり。

次に、全6編が同じ「白綱島」を舞台にした話であること(但し、それぞれの登場人物は関わり合わない)にびっくりね。



しかし、最大の驚きは、どれも(良い意味で)湊作品っぽくないということ。

『白ゆき姫さつじん事件』を書いた人とは思えない。(前回も同じようなことを書いたような……)

強いて挙げるなら、以前読んだ『月の上の観覧車』(荻原浩)みたいな。



島特有の閉息感とともに、過去から現在へと続く人間模様がきちんと描かれている。

しかも、各編の主要人物達のエピソードがどれも奥深い。

短編で使うのはもったいないのでは? と思ったりもしましたが、この惜しげのない潔さが良いのかも。



帰郷した島出身の作家と歌手、子供時代のいじめなど、作品間での設定の類似には(この際)目をつぶりましょう。



6編ともきれいな終わり方でしたが、個人的には5編目の『石の十字架』のラストが好み。

(きれいな締め方ばかりが続くのもアレですが、その意味ではこの「6編」という数もちょうど良い)



あと、4編目『雲の糸』での、地元民の図々しさの描き方は秀逸(これは著者っぽい)。



著者の今後の更なる活躍を期待させる短編集、と言っちゃおうかしら。



Android携帯からの投稿

【書評】『母性』湊かなえ

『母性』湊かなえ







“私は愛能う限り、娘を大切に育ててきました。”
神父宛の手記に記された、幼い頃より常に母親の愛情を確認し、それに応えるように生きてきたある女の人生。
誰からも愛されないという思いを募らせ、やがて自殺を考えるるまでの、その娘の回想。
一方、県営住宅の4階から女子高生が転落した事件の新聞記事に違和感を抱いた高校教師は、母性について考えていた。





湊さんの11作目の著作。



以前に読んだ『白ゆき姫殺人事件』は(タイトルも含め)イマイチな印象でしたが、今作はなかなか良かったですね。



お得意の独白スタイルは健在ですが、「母親」と「娘」の2つの視点が「物語の柱」に。


他の湊作品では、事件後の多数の関係者の証言(インタビュアーはだいたい謎)で構成されているものが多い印象。

多数の視点から生じるズレや意外な人物像を浮き彫りにするといった効果を狙ったもののようですが、個人的には「またか」という既視感を覚えるとともに、「しょせん野次馬の噂話であって、(その人物の)内面を掘り下げているとは言い難いな」という思いもありました。


今作では、視点を複数の関係者ではなく2人の当事者に絞ることにより、内面がしっかりと描かれていたように思いました。
(タイトルはそのまんまですが)



言ってしまえば、母親の愛情にどっぷりつかって育った(但し、過保護ではない)女が、自分が娘を生んで母親になってもなお、その愛情のベクトルを娘ではなく母親に向けてしまう。母親(娘の祖母)が亡くなってからもそれは変わらず、娘を追い込んでいくという話。



「母と娘」という関係は独特で、「父と息子」の関係とも異なる。(もちろん、「母と息子」「父と娘」とも)

だから男性の自分には、将来(万が一)子供を持つ立場になったとしても、一生理解はできないだろう。

ただ、愛情を注ぐ相手を失った母と、どんなに愛情を求めても与えられない娘との、それぞれの「一方通行」が胸に痛かった。



母性は後天的に獲得されるもので、母親になっても母性を持つことができない女性もいる。

そのことについて、何となく感じてはいたものの、“知っている”“理解している”と言うことは(男の自分には)永遠にないだろう。



興味深かった箇所は、

母親に「普段子どもにどんなものをたべさせますか?」と聞いた場合、「おふくろの味をたべさせています」と答えるのはまともな食事をさせていない親で、栄養バランスの良い手料理を毎日作っている親は「普通のものですよ」という言い方をするだろう、というある人物の考察。

“後ろめたい思いがあるからこそ、大袈裟な言葉でとりつくろっているんじゃないか”と。


これは序盤に登場する、“愛という言葉を使いたがるのは、愛されていない証拠だ。愛していない証拠でもあるのだろうか”

にも通じている。



総じて、湊さんは人間(特に女性)の「過剰なまでの自意識」を描き出すのに長けている作家だと思うのですが、今作ではそれが見事にはまっています。

この『母性』については、男性よりも女性読者の方がより共感できるのだろうと考えると、ちょっとうらやましかったりもする。



あと、各章末に「リルケ詩集」の引用がぶっこまれ……もとい、挿入されているのですが、これはよく分からなかったな。

(こちらは男女関係なく、あくまで自分の素養の問題なので、あしからず)



Android携帯からの投稿

【書評】『abさんご』黒田夏子

『abさんご』黒田夏子







第24回早稲田文学新人賞受賞作(2012年)、

第148回芥川賞受賞作(2013年)。

著者(当時75歳)の作家デビュー作でもある。





著者の年齢もそうですが、横書きやひらがなの多用といった独特の文体も話題に。

基本、文章が縦書きで書かれた出版物は「右開き」(表紙の右側で綴じられている、故に「右」に「開」く)で、横書きのものは「左開き」(表紙の左側で綴じられている、故に「左」に「開」く)である。

見開きの頁を思い浮かべると分かりやすいが、縦書きの場合は右から左へと視線が動いていくのに対し、横書きでは左から右へ動く。

これは、各教科の教科書を見れば一目瞭然。国語などの縦書き教科を除けば、すべて左開きになっている。

(ちなみに、ジャポニカ学習帳シリーズでも、「こくご」や「漢字練習帳」など縦書きのもののみが右開き)



『abさんご』は横書きである為、本は“一応”左開きになっている。

「一応」とつけたのには理由があって。

表題作の他に3つの短編(縦書き)が併録されており、それらは表題作とは反対側、つまり裏表紙側から(右開きで)始まる。

さらには、3短編と『abさんご』との間には(「まえがき」でも「あとがき」でもない)「なかがき」なるものが挟まれている。

(表紙→abさんご→なかがき←3つの短編←奥付←裏表紙、という奇妙な構成)

この「なかがき」によれば、3短編を書いたのは著者が25,6歳の時で、『abさんご』とはちょうど50年の開きがあるとのこと。
(たいそう実験的な方向に突き進まれましたねぇ)



さて、この『abさんご』ですが、読むのにかなり苦労しました。

ついつい「横書き」のせいにしがちですが、おそらく問題はそこではない。


まずは「ひらがな」。

いかに、普段漢字の存在が文章を読みやすくさせているのかを痛感。

ひらがなばかりが続くと、文節の区切りが分かりづらく、意味がとりにくい。


さらに「句読点」。

英文のように、「、」を「,」、「。」を「.」で表記。

自分の場合は、(習慣なのか)「。」以外は句点と認識できず、文章が続いていくような錯覚にとらわれることしばしば。

そのため、「,」は問題ないものの、「.」の箇所では何度もつっかえてしまった。



内容としては、ある子供の(片親、家、家庭環境などについての)記憶の断片が書き綴られたもの。

個人的には、ひらがな表記の持つやわらかさが好きな質であるし、文学独特のもってまわった言い方も心地良かった。(蚊帳を“へやの中のへやのようなやわらかい檻”、傘を“天からふるものをしのぐどうぐ”、など)

だからこそ、横書き及び「,」「.」表記の必然性に疑問を。

(縦書きの、ただひらがな多めで読みにくいけど味わいのある作品であったならなぁ!)



なんとなくですが、気の短い方は受け付けないかも。


こころとじかんによゆうがあるいとまに,じっくりとおよみくだされば,どこかたゆたうようなかんかくをおぼえたりなにかしらのはっけんがあるとおもわれたりもした.
(ちょっと真似てみた)



親と買い物に出かけた幼児が傘を選ばされる場面で、求められるままにただうなずくことしかできなかった幼児がかなり後になって、実はあのとき「見せかけの選択の自由」(どの傘を選ぶのか)ではなく「保留の自由」「別の機会に選び直す自由」「次の機会の時期や条件の情報」といったものを欲していたのだ(それでいて当時は明確に認識していなかった)、ということに気づくという箇所が最も印象的でした。



などと長々語りながら、自分のオススメは、実は表題作よりも併録されている3編(『毬』『タミエの花』『虹』)だったりします。


この3編は、どれもタミエという少女が主人公。

不器用で同じ年頃の他の子達ともあまりなじめず、そのためか自分の世界に(閉じ籠るまではいかないまでも)浸っている子。

『毬』では「毬突き遊び」を通じて描かれる、タミエの他人との関わり方や自分の世界に耽っていく様子がなんともほろ苦い。

卑屈さ、小狡さなど、子供の内面がリアルに描かれている。


一番のオススメは『タミエの花』。朝、登校途中にふらりと小山に入り、一日草花を眺めて過ごすことも珍しくないタミエ。ある日、山中で見知らぬ初老の男(草花を調査しているらしい)と出会う。タミエは男に向かって目の前の草花について、でたらめな(だがもっともらしい)名前を告げる。子供独特の世界観・価値観とそれを分かっていながら寛容に包み込んであげる大人の優しさに、心が和んだ。
と同時に、同じ年頃の子達よりも多くの草花を知っているというタミエの自負が男との出会いにより(実際は正確な名をほとんど知らないので)揺らいでいく様子や、それでも虚勢を張り続けていることへのささやかな罪悪感など、これまたほろ苦い。


最後の『虹』は、タミエが虹を見た記憶がないという記述から始まる。いつものように学校をサボることにしたタミエは、海辺をひたすら歩いていく。今までに行ったことのないところまで行ってみようと、まるでスタンドバイミーのような冒険が始まる。ストーリー上の「虹」の処理についてはある程度予想できたが、その先にとんでもなくほろ苦い展開が待っていた。


この「ほろ苦3部作」(勝手に名付けた)は読みやすいので、『abさんご』が無理だった人にもぜひ読んでほしいものです。



Android携帯からの投稿

【書評】『笑うハーレキン』道尾秀介

『笑うハーレキン』道尾秀介







東口は五年前に事故で息子を亡くして以来、疫病神らしき謎の老人の姿が見えるようになった。それをきっかけのように、妻との離婚、経営する家具製作会社の倒産と、不幸が相次いだ。現在東口はトラックで寝泊まりしながら、家具の修理依頼で細々と生計を立てつつ、ホームレス達と共に暮らしていた。ある日、弟子入り志願の奈々恵という見知らぬ女が現れる。





2012年(1月~10月)に読売新聞の夕刊で連載されていたもの。

自分は、新聞連載小説というのがひどく苦手。以前、購読していた新聞に『夢違』(恩田陸・著)が連載されていた時も全く読まなかった。(単行本化されてから読んだ)

せっかくの料理を微塵切りにされ、それを毎日ピンセットでひとつまみずつ与えられるようで、味もなにも分かったものではない。


考えてみれば、新聞に限らず、そもそも自分は「連載もの」自体が苦手。

現在の日本の小説の多くが、まず文芸誌での連載を経た後に単行本化される。

書店の店頭で、贔屓の作家が文芸誌に連載しているのを発見しても、まず読まない。(それが読み切りであっても。)

一編の短編として完結しているように見えても、連作短編集のうちの一編であることが多い。


だから、デアゴスティーニも買いません。関係ないか。

(アレ、最後まで継続すると結構なお値段になるらしいですぜ)





そんな訳で単行本として初めて読んだのですが、新聞連載小説は作家側にも制約を課しているのだということに気づかされた。

先述の通り、微塵切りの料理を読者に振る舞うにしても、作家はそれに対応して作り方を変えてくる。

たとえ一片でも読者を飽きさせないよう。しかもシーンとしての意味をなしているよう。

だが、そのような工夫がなされた一片一片を一料理としてまとめた時に、今度はどうしても全体のバランスの悪さが目についてしまう。

もちろん単行本化にあたり、ある程度の加筆修正はあったのだろうが。

新聞の一日分はかなり短いから、なおさら。



今作は以前読んだ『カササギたちの四季』系のほんわかした話かと思いながら読み進めていると、間もなく「人の死」が絡んできて少々面食らう。

それでいて、主人公にだけ見える疫病神や、前妻のエピソード、(道尾さんっぽいといえばぽいけど)かなり微妙な仕掛け、終盤の(ここをメインにして話を作り直せばいいのに的な)急な盛り上がりなど、各パーツの「必然性」にも疑問が。とにかく、バランスの悪さとぎこちなさがやけに印象に残った。

あと、主人公の心の傷の原因が子供の死であるという、設定の安易さも気になったところ。

他の作家ならともかく、道尾さんならばもっとうまく処理できるのでは?(期待の裏返しです。)



以前、ドラマの原作となった『月の恋人』を読んだ際に感じた、作者の苦心ぶりがふと思い出されました。



タイトルは、伊坂さんがつけそうなテイスト。

読了後、表紙のデザインを見ると、「ほう~」と。(全くネタバレではない)

読む前と読んだ後で、表紙の印象がガラリと変わったのはなにげに面白かったなぁ。

読むことにより、自分の心の中に何らかの変化はあったということか。



Android携帯からの投稿

【書評】『土の中の子供』中村文則

『土の中の子供』中村文則







27歳でタクシー運転手をしている私には、かつて両親に捨てられた後にひきとられた遠縁の親戚の家で虐待を受けて育った過去がある。そのせいか、時折、自らを危険にさらし、窮地に陥るような行動をとることがあった。まるで、恐怖の先に待つ「何か」に到達するのを待ちわびているかのように。
一方、同棲している白湯子も、以前恋人の子を死産したことにより心に傷を負っていた。(『土の中の子供』)
他に『蜘蛛の声』併録の計2編。





第133回芥川賞受賞作。



中村作品を読むのは、8冊目。

芥川賞作家の芥川賞受賞作なのだから、著者の代表作に違いない。

なので、一番に読んでいても良いはずなのですが。



中村作品は後発のものほど洗練されていて(特に自分は『悪と仮面のルール』から入ったこともあり)、気になったものからランダムに読んでます。

初期の作品には(この『土の中の子供』もしかり)、構成や文章に「比較的」粗さが見られ、自分はむしろそれを楽しんでいる感じ。



この作品では、幼少期のトラウマという、題材の「ディープさ」がやや勝ちすぎている感もあり。
(確かに、それが主人公「私」の心の闇につながっているという設定ではあるが)

あと、主人公のキャラクター、人間関係(人生に疲れた女性との同棲、生き別れた父親等)といった設定に、他作品との類似が見られるのもご愛嬌。

それでも、「私」が無茶・無謀な行動をとる(「私」自身も気付いていない)真の理由や、幼い「私」と施設長のヤマネさんとのエピソードなど、絶望の中に希望の光を見出すところは中村さんらしい。

(絶望の闇が深ければ深いほど、希望の光はいっそう眩しく暖かく感じられるものかも)

大学時代の同級生の「車を運転中に急カーブを目の前にすると、ふとハンドルを反対車線側に思い切りきったらどうなるかと想像することがある」という言葉を思い出した。
(ちなみに、現在、彼は幸せな家庭を築いています)



最も印象的だったのは、「私」と同じ時期に施設で育った少年の台詞。

“「不幸な立場が不幸な人間を生むなんて、そんな公式、俺は認めないぞ。それじゃあ、あいつらの思う通りじゃないか」”



また、

“常に内向的に成長した私は、本を読むようになった。先人の書いた物語を読みながら、この世界が何であるのかを、この表象の奥にあるものが、一体何であるのかを探ろうとした。”

の箇所では、単なる著者の考えの投影に止まらず、我々が本を読むという行為の理由の一つが示されているようにも思えた。





併録の『蜘蛛の声』は短い作品ながら、こちらもなかなかディープ。

主人公による一人称視点で展開しながらも、終盤に自分が何者かが分からなくなるあたりから、「世界」がぐにゃぐにゃと歪む感じがたまらない。

結局、妄想と現実の境界が曖昧なまま迎えるラストの「不安感」の拭えなさも良い。



ちなみに、先月、自分が某雑誌に投稿したショートショート作品(実は、1月から数年ぶりに投稿をこっそり再開しました、てへぺろ)が、同じく「壊れた人間」視点の話でして。

大抵ショートショートを書く時は、かつて愛読していた星新一先生風味のものがどうしても多くなるものなのに、先月は珍しいなと思っていたんですが。


この『蜘蛛の声』を読み終わった後、

(中村作品に近年はまっていることにより、自分の中の「何か」が引き出され始めたのかも)

などという考えも浮かんで……


って、考え過ぎか。





最後に、『土の中の子供』と『蜘蛛の声』の二作を比べると、二人の主人公の対照性に目がいく。


どちらも過去に特異な体験をしながら、

一方は、他者(及び過去)と関わるべく過激なまでに自らを差しだし、

もう一方は、他者(及び過去)との関わりを激しく拒絶する。



あとがきで、著者がこう述べていた。

“物語の向かっていく方向は異なっても、二作ともそれぞれの形で、僕の本質的な部分を如実に示しているように思えた。”



中村作品を読めば読むほど、著者の人間像に近づいているような感覚を覚える。

まだまだ、著者の作品から目が離せない。



Android携帯からの投稿

【書評】『しょうがの味は熱い』綿矢りさ

『しょうがの味は熱い』綿矢りさ







奈世が絃(ゆずる)の家で同棲生活を始めて、1年近くになる。何事も手際のよい絃と、不器用で大ざっぱな奈世。正反対な性格の二人の間には、早くも憂鬱の影が漂い始めていた。(『しょうがの味は熱い』)
表題作の他、その2年後を描いた『自然に、とてもスムーズに』の2編収録。





綿矢さんの作品を読むのは
『勝手にふるえてろ』(2011年1月30日記事)
『かわいそうだね?』(2012年5月29日記事)
『ひらいて』(2012年11月28日記事)
に続いて4冊目。



表題作の『しょうがの味は熱い』は、奈世と絃が同棲を始めて1年弱の時点の、
併録の『もっと自然に、スムーズに』は、さらにその2年後のお話。



目次を見た段階では、2編が繋がっているとは夢にも思わず。

1編目を読み終わった際、何か物足りなさを感じていたら、2編目も繋がっていてびっくりみたいな。

(以前に『かわいそうだね?』が2編収録ということを知らずに読んでいて、本の半ばで突然話が終わった時に感じたものとはまた違う種類の驚き!)



ただ、全体的に見て、正直やや物足りない。

(自分が読んだ)他の作品に見られるような、主人公の「暴走」を知らず知らず(勝手に)期待していたんだけど。

今作では、せいぜい、実家の両親をちょっと振り回すぐらい。(まあ、リアルといえばリアル)



実家での奈世と父親の会話のお気楽ぶり。

“「絃は私がドジをしたり家事をさぼると本気で心配そうな顔になるの。しょうがないなあ奈世は、そこがかわいいんだけど、とか絶対思えないみたい」
「それじゃ無理だ。奈世はしょうがないところばっかりじゃないか。それが奈世の持ち味だ」
「だよねえ」”


また、何事も手際よくこなす絃が、追いつめられすぎてぐずぐず泣き出すシーン。

“「もういやだ。寝たい! とにかく寝たいんだ」
絃はあまりに眠たくて涙を流しているのでした。”

の箇所には笑ってしまった。



「結婚」についての絃の考えが、

“二人三脚といえば聞こえはいいけれど、二本しかない足の片方がもう自分の意思だけでは動かせなくなれば、相手や自分のミスでいとも簡単に転んでしまう”

とか。



はっきり言って、二人の同棲生活は子供同士のままごとだ。

「性格が正反対な方がいい」という説もあるけれど、相手に寛容でない者と、相手に合わせようと無理している者とでは、上手くいきっこない。
(と、未婚の自分が申しております。)

「結婚」というものに初めて真剣に向かい合ったこと「のみ」が収穫か。

にしても、ラストは何かおかしな方にストーリーが行っちゃうし……。

「進展」でもないしなあ。




ストーリーとしてはアレでも(アレって言うな!)、唸らされた箇所も。


(著者の考えが多分に入っていると思われるが)奈世のものとして語られる様々な考察が興味深い。


何かの作業と考え事を同時にしていて、ふと作業の方に気を取られた瞬間、それまで何を考えていたのか忘れてしまうことがある。

“一生懸命記憶をたぐり寄せていると、考えていた物事より先に、考えていたときの気分の方がよみがえってきて、おもしろい。”

作業を続けていると再び思い出すことがあって、

“考えているときは自分がどんな気分かまでは分かっていないから、先に気分を思い出したことによって「私はこのことについて考えているときこんな気分でいたんだ」と気付くこともできるから得だ。”



また、アメリカの家庭では普及している「食器洗い機」や「乾燥機」が、日本ではさほどではない点について。


“家電製品が大好きで、どんな製品でも日本向けにコンパクトに作り変えるのが得意な日本のメーカー”が開発に成功してないわけがない。

“食器洗い機と乾燥機が普及しない背景には「皿くらい洗えよ」と「洗濯物くらい干せよ」という日本人特有の意識”

“家事を完全にさぼりきることの漠然とした恐怖と、これくらいはやらないとという責任感にも似た思い”がある、のだと。


さらには、テーブルの汚れを拭く際に、ペーパータオルではなく「ふきん」を日本人が使うことについて、

紙がもったいないというエコの意識からではなく、

“家で母がふきんを使い、しぼって干していくのを見て育っているから、それが当たり前だと思いこんで” いるから。

さらには、

“もっと便利になってよい世の中なのにいまひとつ進歩が遅れているのは、実は裕福さの問題ではなく、個人の胸にひそむ、これだけは最低限守っておかなきゃいけないというしきたりのせいなのです。”


(最近読んでいる)谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』での日本文化と西洋文化の比較も興味深かったけど、奈世(著者?)の考察も非常に面白かった。



ストーリーに派手さはないものの、文章表現や様々な考察が楽しめる「綿矢」節は健在。



あとは、もっと「暴走」があればなぁ。



Android携帯からの投稿

【書評】『銃』中村文則

『銃』中村文則







雨の夜に目的もなく歩いていた「私」(西川)は、橋の下で見知らぬ男の死体を発見する。死体のそばに転がっていた拳銃に魅入られた私は、それを自分の部屋に持ち帰る。それ以来、私の内面に変化が起きる。そして、拳銃を所持していることに対する喜びが、いつしか、自分が実際に発砲するという確信へと変わっていく。





著者の「デビュー作」にして、「新潮新人賞受賞作」。

単行本未収録『火』併録の為、文庫版(河出文庫)を。





読了後の感想をひと言で言うと、

これまで読んだ著者の作品の中で、最も「内省的」か。



冒頭から、「私」(主人公)の心の声や動きなどの内面描写に目が行く。

実際は、情景描写の合間程度でそう多くはないのだろうが、些細な心の機微がその都度描かれているような印象を受けた。

(特に最近の)他作品のような読み易さを知らず知らず期待していた為、読み始めは少々面食らった。

デビュー作ならでは、なのか? (他作品と比べてという意味で)比較的洗練されていない文章だったり、時折現れる長い段落だったりと、居心地の悪さのようなものが常につきまとう。

ただ、それが途中から、銃への偏執的なまでのこだわりや独特の思考回路などの「私」が持つ異常性・異質性とシンクロし始めるから面白い。

(これも著者の計算なのか?)



主人公「私」のキャラクターには、他作品(特に『斜光』)の登場人物と共通する要素が見られる。

内面に闇を抱えていながら、周囲とはそれなりに上手くやり、異性にもモテる。

(隠し持った「ある特定のもの」を心の支えにするところなどは、まさに『斜光』だ)



自分の異常性を自覚しつつ、それを周囲に悟られまいとして「平静」を装うのが上手い。

本作の「私」もそうなのかと思っていると。



銃を手に入れた「私」はその興奮のあまり、(文字通り)我を失う。

基本、常に自分を客観視して変化を悟られないように振る舞っているつもりだが、それでも端々から漏れだしてしまう。

雨の中しばらく傘をささずにいたことに後で気づく等、他人が見れば怪しむような行動に知らず知らず走っている。

関心が銃のみに集中するあまり、その周辺についての注意がなくなる。



それはまさに「こども」じゃないか、

と思ってしまった。



以前にも書いたと思うが、

「こども」は無邪気なんかではないし、「大人」の考える「こども」像を演じているだけである。ただ、そのことに「大人」が気づいていないと思っているところも「こども」なのだ。

(確か、敬愛する伊集院さんの言葉だったような)



冷酷無比で隙のなかった人物が、愛を知ったことにより、(強さと同時に)弱さを抱えてしまうのとは話が違う。

銃を拾い、それに何かの意味を見出したとしても、結果的に自分がコントロールできなくなるのは「未熟さ」ゆえだ。

ただ、この作品ではその「未熟さ」こそが魅力的だったりもするのだが。



主人公の「未熟さ」、最初に感じた「居心地の悪さ」、それにこの作品が著者のデビュー作であることを踏まえた上で最近の作品と比べてみて、(登場人物も著者も成長してるんだなぁ)と勝手に感慨に耽ってみたり。



「未熟」とは言いつつも、「私」が自分を客観視した記述や心の声を拾い集めてみると、一貫した信念のようなものが見えてくる。


“稀に、私は自分のしたかったことの反対に流れるような、よくわからないが、そういう行動をとることがあった。”

“私には、これから起こるであろう近くの未来を意外なものにしたいと思う、そういった癖のようなものがあった。”

“予想や想像に重点を置けば、深く何かを考え、自分に照らし合わせて検証すれば、何もできなくなる。”

“考えなければ不幸にはならない”

“私の身に不幸が起こっているとしても、私がそのことを意識し、考えなければ、それは不幸として成立しない。”

“突き詰めて考えていけば、何もできなくなる。何もできなければ、生きることに価値というものがあるのならば、それを失う。”


信念で身を持ち崩すのか、信念を曲げて新たな道を歩み始めるのか?

ラストもなんともいえない良さ。
(まあ、そうなっちゃうか)





ちなみに、最も強く印象に残ったのは、以下の箇所。


“私はただ、見つけたのだと思った。人が例えば絵を描いたり、音楽をつくったりすることに喜びを見出すように、仕事や女、薬物や宗教などに依存するように、私は夢中になれるものを発見したのだと思った。私にとっては、それがただ拳銃であったことに過ぎなかった。”


序盤に出てきたこの文章は、秀逸。

「拳銃」を「小説」に読み変えれば、著者の告白と思えなくもない。(なーんて深読み)


とにかく、色々な読み方をしながら楽しんだ作品でした。



併録の『火』も約30頁の短編ながら、なかなか「凄い」話。

あとがきで著者は

“押しつけられたような明るさや、大多数が喜びそうに計算されたものが多い中、文学においてこういうものも必要なんじゃないか、と作者としては勝手に思っている。”

と評している。



また、『銃』の単行本のあとがき(図書館で立ち読み)には

“絶望的なものを把握しようとすることはそれだけで希望に繋がる”

という著者の言葉があった。



あとがき共々、一読をオススメします。



Android携帯からの投稿

【書評】『チェインギャングは忘れない』横関大

『チェインギャングは忘れない』横関大







東京拘置所から刑務所へ向かう途中の護送車が何者かに襲撃され、五人の囚人が脱走。同日、守谷サービスエリアで、シングルマザーのトラック運転手・水沢早苗は記憶喪失だという青年を拾う。
一方、刑事の神崎は、脱走した5人のうちの1人についてある疑問を抱く。





今月はなぜか、

「乱歩賞作家の乱歩賞受賞作じゃない作品」を読んでます。

(今月末が乱歩賞の応募締切であることとは無関係。本当、たまたま)





前2作『再会』『グッバイ・ヒーロー』についての印象は、平易で読みやすい文章で書かれているな、というもの。


今作も概ね読みやすい文章でしたが、部分的に「ん?」と首をひねった箇所も。



序盤の護送車が襲撃される場面での

“……を見逃すことになった。”

“……言い渡されることになる。”

“……格好になってしまっていた。”

“……を強いられることになる。”

といった、言い回しの多用がくどく感じる。



また、この作品は、基本、三人称で書かれている。

場面によって視点の人物が変わるのは良いとして、それでも気になる箇所があった。



同じ「三人称」でも、語り手が全登場人物の心情・事情や未来の展開など全てを知っている「神視点(多元視点)」もあれば、一人の登場人物の視点から描く「個人視点(一元視点)」もある。

本作は、基本的に「三人称個人視点」(護送車襲撃シーンは神視点か)。



だが、早苗と航平の母子の場面(特に航平視点からの)になると、「地の文」が途端におかしくなる。


“部屋に入ってきたお母さんに航平は声をかけた。”

“お母さんの手に車のキーが握られているのに気づいた。航平は訊いた。”



どちらの場合も、

「お母さん」に対応するのは(「航平」ではなく)「ぼく」であり(【一人称視点】)、

「航平」ならば「早苗」または「母」(【三人称視点】)となるべきか。



そんなことを考える一方で、(ホント、面倒くさいやつだな)という自分自身に対する心の声もあり……。


とはいえ、(「神視点」を含めた)人称使いの難しさを再認識できたのは大きな「収穫」。



それに……

(さて、ようやくここから褒めます)

気になるのは先述の部分のみで、ストーリーとしては問題ない。


(『再会』は置いておくとして)前作『グッバイ・ヒーロー』同様に、登場人物たちが魅力的で生き生きとしている。


終盤にタイムリミットを設けて、次第に緊張感を高めていく手法も前作同様。


また、本作には「ある仕掛け」があり、それ自体はさほど見破りにくいものではないのだが、その「ばらし方」が巧い。


加えて、このての作品は「ご都合主義」と批判されることも多いようだが、個人的には全然気にならない。

だって、自分、「伊坂チルドレン」だもの。
(『チルドレン』というタイトルの伊坂作品がある為、ちょっとややこしいが)

(そもそも、伊坂作品をご都合主義だと思ったことない)

エピローグまで読むことにより、ストーリーとしての「環」がきれいに閉じたようにも感じられた。



ちなみに、またもや散々「伊坂」「伊坂」と書いてしまったものの、今回は「伊坂幸太郎の呪縛」発動せず。

純粋に楽しみながら読めました。



次作もさらに楽しみにしておこう。

(ピザ配達、トラック運転手ときたら、次はメッセンジャーあたりかな?)



Android携帯からの投稿
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>