「松本人志『答えのある学問より答えの無い大喜利を追求するほうが美しい』」とは何か。 | (^ー^ *bリゆづかんかんのブログ

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松本人志「答えのある学問より答えの無い大喜利を追求するほうが美しい」
http://logsoku.com/thread/hayabusa3.2ch.net/morningcoffee/1351696499/




これは非常に面白い問いだ。

笑いに答えを求めたのは松本だ。

しかし、本当は笑いに答えはない。それこそが笑いだ。

一方、学問は答えを探究するのが正しい。
方や笑いは答えを求めること自体がすでに問題。

笑いとはそもそも答えを探求するものなのだろうか。

なぜこの問いが先にくるかといえば、笑いは直接的に他者とのかかわりのなかで生まれるから。

一方、学問は他者や世界とのかかわりとともに自分とのかかわりのなかで答えがでる。
学問に答えがないというのはそういう意味で、あるとしても自分にとっての暫定的な答えしかない。
しかし、答えを求める価値があるのはすでに自明なのだ。

それに対して笑いは必ずしも自分にとっての答えをみつける必然性はないし、何よりもまず人を笑わせることが肝心なのだ。

ここにおいて学問と笑いでは「答えの探求」において距離がある。

つまり「これじゃなくちゃいけない」度合いが学問と笑いでは一段違う。
笑いの答えは常に「あれか、これか」と選択肢が開かれる。

最も端的な表現をすれば、学問は「自己と世界のかかわり合いの探究」であるのに対し、
笑いは「他者との摩擦のなかでの(自己への)問い」なのだ。

人を笑わせるという第一命題が挟まるがゆえに、笑いは他者との摩擦が強く、また答えも無数となる。

既述の通り、そもそも笑いにおいて「『自己への問い』とは何か」が問われる。

むしろ松本人志は「自分にとって」の笑いのこだわりが強いのではないか。
答えのない笑いの追究が美しいと思えるのは自分にとっての笑いがかなり明確だからではないか。

このスレッドでも語られている通り、
「答えのある学問」(「学問に答えはある」)というのが基本的に間違ってるからややこしいが、
実際は「自己への問い」として美しいのは学問の方だろう。

笑いは「他者との問い」だ。

もちろん、他者との摩擦のなかで問われる笑いに美しさを感じている可能性もなくはない。
笑いを通じて無数にある笑いの探求を楽しんでいるかもしれない。

それこそ、タモリのようなジャズ式の笑いであれば、
その場のセッションとして笑いを愉しむことになる。

これぞ笑いの美しさであり楽しさである。

このように、学問と比べ、笑いの答えは常に無数に開かれている。

学問とは「自己への問い」であり、笑いとは「他者との問い」なのだ。

「美しい」という表現をどこにあてはめるかは問題だが、
いずれにしろ学問と笑いの答えはこのように違う。




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