アカデミー国際長編映画賞受賞作品。ジョナサン・グレイザー監督。

 

広い庭やサンルームを備えた豪邸で暮らしているヘス一家。庭には子たちの笑い声が響き、常に美しく整えられた邸内は平和そのものだ。しかし、その家の外からは常に銃声や呻き声が聞こえている。なぜなら、壁1枚隔てた向こう側にあるのは、アウシュビッツ収容所だったからだ……。

 

アウシュビッツを扱っていながら、収容所事態はほぼ映し出されないという特殊な演出。その代わり、ホームドラマの外側では常に不穏な「音」が響いてきて観客の精神を蝕む。時折さしはさまれるサーモグラフィによる映像では少女が収容所にこっそりリンゴを置きに行く。しかし、それすら殺戮の引き金になってしまうという地獄。見えないけれど確かにそこにある惨劇が、言いようのない恐怖を与えてくる実験的な映画だ。

 

収容所の所長であるヘスは出世を目指しつづけていて、妻の希望に従順に従う家庭人の振る舞いを見せつつ裏ではメイドに口淫させるなど俗っぽい一面もある。妻はユダヤ人から強奪した毛皮や口紅を身に着けるながら豪華なライフスタイルを手に入れたことに満足していて、今の暮らしを保持することを最重要視している。よって、配置換えになった夫は単身赴任をしなければいけなくなる。

 

とにかく、ずっと響き続けている不穏な音が怖い。我々は収容所で何があったか知っているので、音から行為や現象を想像できてしまう。いま誰がどうやって殺されて、どんな光景が広がっているのかが否応なしに脳内で再生される。それらと対照的なスクリーンの中の家族の姿に、どうしたって自分たちを重ねてしまうのだ。

 

本作のポイントは、少なくとも大人は何が起きているかを完全に知っているという点だろう。遊びに来た妻の母親は最初は羨ましがりながらも、状況に耐えられずに逃げ出す。妻は徐々にいら立ちを強めていきメイドたちに対する当たりが強くなっていく。そしてヘスは……後述するラストにすべてが詰め込まれているのだが、彼も無関心・無感覚・それが当たり前になんてなっていない。皆が等しく収容所でおぞましいことが行われていて、それが極めて残虐な殺戮行為だということはわかっている。その上で、気づかないような顔を保ちながら平穏な理想の生活を守り抜こうと努力しているのだ。それが何よりも怖い。

 

大人たちに対して、子どもたちは本当にその環境に慣れていってしまう。ユダヤ人の歯で遊び、兄は弟を温室に閉じ込めて笑い、弟はリンゴを取った取らないでユダヤ人が殺されていくのを平然と見つめる。投稿する際にはナチュラルにヒトラーに敬礼し、「すくすくと」育っていくのだ。子どもたちが塀の向こうで行われていることをどこまで具体的に知っているのかはわからないが、彼らにとってはそれが日常になってしまっている。なんて恐ろしい。

 

カメラはサーモグラフィパート以外は常に引きのショットで、各キャラクターの感情に寄ることはない。だから彼らが何を感じているのかは表情からはわからない。しかし、最後の最後でヘスの身体に起こる変化が印象的に描写される。決定的な抜擢を受け大出世を果たしたヘスは、階段を下りながら3度も嘔吐するのだ。しかし、床には吐瀉物も血液もない。何かを実際に吐いたわけではないが、思わず嘔吐してしまう……それは、これから自分が行うことの残酷さを十分に認識しているが故の生理的な反応なのだろう。その間に画面は突如として現代に切り替わり、アウシュビッツ平和博物館の館内が映し出される。ショーケースの中に展示されている夥しい数の靴、靴、靴。ヘスが行うことを直接的に示すこの現代パートに、私はあたかも人間の罪が過去から未来、また過去へと一瞬で時間を刺し貫いたかのような錯覚を覚えた。そして、ヘスはまっすぐにスクリーンのこちら側を見つめ、それから真っ暗な階段の下へと消えていくのだ。

 

いま世界で起きている殺戮のことを我々は知っている。その残酷さも、凄惨さも。知っているのに何も感じないふりをして、自分たちの平穏を必死で保とうとしているのだ。それはヘス一家がしていることと何ら変わりがない。お前も吐きそうになっているんだろう?本当は。あまりにも直接的な、もはや糾弾ともいえる問いかけ。恐怖と自責の念に駆られながら、耳を覆いたくなるような音に満ちたエンドクレジットを呆然と眺めるしかなかった。