いろいろなプロセスを経て
一人の人間は大人になるのもので
若い頃にする苦労は素晴らしい人生勉強だ!なんていう人がいるし
実際、自分もそう思っているけれど
わざわざ難解な苦労を子供に与える大人がいること
大人になってから、その異様さを時々目にする。
それら根底にあるものは大抵嫉妬で
本人も気が付かないところで、それら嫉妬が正当化され
この子にはつらく当たっても良いのだ、という自己憐憫交じりの結果に行きつく(のだろう)。
大人が何気なく放った言葉を
子供は結構忘れないものだ。
傷となって残っている場合もあれば、理解出来ずに背負ってきた場合もある。
大人になった自分が、当時その言葉を放ってきた相手と同じくらいの世代になってみて
当時の相手が”どの(程度の)レベル”なのかを分析する場合もある。
自分自身、ずっと忘れられずにいた言葉があって、
それを言われた状況も覚えているため、長い間、幾度となくぼんやり思い出していた。
「これだから母親のいない子は…」と、当時近所に住んでいた一つ下の女の子のおばあちゃんに言われたのだけど。
傷付かなかったけど、傷付かなければいけないのだろうな、と思ったことを覚えている。
なぜならその言葉は、当時の私に母親不在である現実を、別の角度から突きつけてきたのだから。
8歳。
両親が離婚したばかり。
父親に引き取られた。
近所の公園のブランコに乗っていた。
顔見知りの女の子が来て、「私が乗るから下りなさいよ」と言った。
私は「嫌だ」と答えた。
押し問答のような取り合いが起こった。
この言葉が放たれた理由付けの箇条書き。
自己憐憫抜きに。
ここで、
「離婚するような両親を持つ8歳のただの子供が、人気のブランコに乗り、それは、同居しているおばあちゃんに可愛がられている年下の女の子が乗りたがっているブランコで、女の子から「乗らせてほしい」とやや傲慢ではあるが強い口調で頼まれたにも関わらず「嫌だ」と跳ねのけた」
という理由付けをする人は、私の書いたものを永遠に理解出来ないと思うので
それはそれで仕方ないです。
でも、その意味を理解出来る若い子がいたら、考えてほしいなと思って。
私の「文章練習ブログ」が、何人の子供たちに届くかは分からないけど、何となく伝えたいなと思っていた言葉を書きたいと思った。
内容は別物だけど、そういう言葉を放つ大人(しかも今度は男の人だった。びっくり)と、最近出会ったものだから、「お!いたいた、異星人!」と面白がっている節もありますが。
もしも。
何か、「これは傷つくべきなんだろうか」と思う言葉を大人から放たれた時、
そんなもので大切な心に傷などつけず、異星人から出題された、未来の自分へのクイズなんだと
少しの間、保留にしておいて。
子供たちが一生懸命自分の人生を生きていたら、必ず答えは見つけられるものだよ。
世の中には良い人もたくさんいる。
その人たちと過ごす時間すら、忙しくて作れないというのに
なぜ、大切でもない人のことを考えてしまうのだろうね。
大人になって思うもの。
あの日の子供が自分の好きなレストランでバイトを始めたり
あの日の子供が自分の行きつけの病院の受付で仕事を始めたり
そして将来
あの日の子供が、自分がお世話になるヘルバーさんである可能性だってある。
人生は地球みたいに回っているの
ちなみに私、執筆の勉強をしているのだけど
一番最初に描いたシナリオで、あの女の子の名前を使いました。
滅茶苦茶性格の悪いキャラだった。
ああ、やっぱ、恨んでいたのかもね~