気が付けば なくなった

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希望と民進が新党結成へ、小池都知事「とても残念」

4/25(水) 23:00配信 TBS NEWS

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180425-00000087-jnn-pol

 

かつて自分で取り上げたこともあったので、無くなるのならその時も取り上げた方がいいかと思って取り上げました。

 

ました、が、早いものですね

 

あれから一年もたたずに、希望の党がなくなりましたね。

とはいえ、都民ファーストはまだ残っているので小池氏の政治勢力が完全になくなったわけではないです、一応。

 

それでも、小池氏の夢といいますか野望といいますか、本当に目指していたものが潰えた(正確には前回の選挙で出馬しなかった時点ではありますが)瞬間でもあります。彼女はこれで、初の女性首相になることはできなくなりました(鉄の天井発言から窺い知れる憶測です)。

 

また結果として、より野党は弱くなり、「自民党一党独裁」で「安倍一強」を支えているのは野党であり、大手メディアという見事な事例になってしまったとも言えます。なぜなら、こんな離散集合を繰り返す方々に一票託せませんから。

 

分かってはいましたが、やはりこんな風になるのかと思うと、やりきれませんね。政治不信や国会の空転はなにも与党だけの責任ではないんですけどね。

 

 

とても分かりやすい取材というものの例

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<オスプレイ>「なぜ今」横田配備へ 突然の前倒し

4/3(火) 23:33配信 毎日新聞

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180403-00000126-mai-soci

 

まさに取材とは何をすることかをとても分かりやすく教えてくれる見本のような記事だなと思って久しぶりに更新を兼ねて書きました。

といいますのも、記事を作るときにあらかじめ書く内容が決まっており、そのための取材をしているのがとてもよく分かるからです。

この場合反対の記事を書きたいので、反対派の方に取材(場合によってはただの広報コメントや多媒体からの受け売り)して、その上、反対意見を言ってくれる人を探して書く、見つからないまたは時間がない場合は取材せずに適当にまたは(取材場所や相手を)

一部誤魔化して書くという手でとてもお手軽に記事が書けるということです。

 

正直これ、ただの新聞社の意見表明とそれに合致する感想を書いているだけで、これのどこに取材結果があるのでしょうかということです。

 

テレビでもそれはよくあることでして、何度か取材現場に出くわしたことありますが、大抵、筋書きが決まっており、その通りにコメントしてくれるように誘導して取材しております。ですから、相手が意図しないコメントした場合、「ですが~」とか「しかし~」という風に訊いて、期待通りの応えを引き出そうとします。それでも期待通りでないと違う人にまた同じ質問をして、期待通りの答えを返してくれる人を探し続けます。必ずしもそうでないのかもしれませんが、こうした記事を見ますと、結局報道ってなんだろうね、という気分にさせられますね。

 

これほど中身のない2~3の感想を掲載しただけの記事なら、価値さえないといいたくなります。事実を伝え何があったのかを疑問視するならそのように記事を書けばいいだけでして、なぜにわざわざ感想を乗っける必要があるのでしょうか。それは単に、最初に書いた文脈に合致させるために、都合のいい感想を乗っけてさもそれが全体意見であるかのように仕立てたいからですよね、この記事の場合。で、それって本当に全体意見なんですか?2~3の感想乗っけただけで「基地周辺の住民からは怒りと不安の声が上がった。」と書けるんですから、それなら新聞社に対して「購読者からは怒りと不安の声が上がった。」とも言えるのではないでしょうか?それに対してどう考えられるのか、この記事を書かれた、ないし書かせた方に聞いてみたいですね。

 

書きたい内容があるから取材(?)して記事を書く。気を付けないと、書きたいものに引きずられますよ。

 

 

「市民運動」というもの

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東浩紀「市民運動の方法論は1968年から進化していない

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171108-00000062-sasahi-soci&pos=3

AERA 11/10(金) 16:00配信

 

ある意味面白い指摘であるとも思うこの記事ですが、同時にこの記事から「市民運動」の持つ根源的な問題も透けているところが面白くて取り上げさせていただきました。

 

一番の問題は抗議の表現ならば犯罪行為も正当化されるという考えの下でずっと「市民運動」は展開されているということではないでしょうか。これは思想の左右問わずよくあることですが、自分たちの主張が正しいという思いから、犯罪行為をそうと認識することなく、または社会的正義と言い換えることで正当性を得たという考えの結果、実行されるわけです。その問題に気づくことなくずっと続けてきた為、次第にあまりに危険な思想を持つ極端な集団が彼らが危険視する権力組織よりもよほど危険な組織になってしまい事件をおこしてきたことで見放されていった歴史でもあります。

 

今でも沖縄の基地反対運動では不法行為が公然と行われているのは動画等でも簡単に確認できます。こうした、自分たちの主張の方が優先されるという考えが、周囲から人が離れていった理由そのものではないでしょうか。つまり、人に迷惑をかけ過ぎることなく、他人も尊重するということができなかった結果でしかないのでは、と。

 

本当は掘り下げるともっと様々な根深い問題(抗議対象への理解、制度・政策・法律的な理解、戦前と変わらない扇動、集団無責任主義)が出てくるわけですが、それに触れますととても長いものになりますので、今回は割愛しまして、なぜ「市民運動」と括弧がつくようになってしまったが透けている記事だと思いとりあげました。

 

そもそも学生運動が支持されているというのも実は内輪の盛り上がりでして、当時から白眼視もされていたようです。それをメディアが大々的に報じたりしなかっただけで、大学に行っていない同性代の人の呆れていた話も結構聞きますからね。そんな運動をずっと変わらずに続けていればこうなるのも必然といったところでしょうか。