7月になった。
ということは今年も半分終わり…という話はもういいか。
なにかと「早いなあ」という話をするのが、僕を含めてみんな好きなような気がするけれど、一体何を確認しているんだろう?
7月のはじめには高校生の期末テストがあるんだけれど、高校生、7月、期末…というキーワードが並ぶと、思い出すことがある。
まあかなり個人的な思い出なので、「てめえの甘酸っぱい話に興味はねえ!」という方は読まなくていいです。ほんまに。
今から13年前の2002年(小泉首相、日韓ワールドカップ、そういう時代)、高校一年生の7月3日の、海辺の田舎町を走るバスの車内で、僕は宿命的な恋に落ちた。
その時僕は15歳で、彼女は17歳だった。
三年生の彼女と帰りのバスの時間が同じだったのは、ちょうど期末テストで早かったからだ。
制服を着た彼女は上品な猫のように、涼しい目で車窓の海を見ていた。僕は一目で彼女が自分にとって特別な引力を持っていることを感じた。当時コカコーラのCMに使われていた桑田圭祐の「可愛いミーナ」をMDウォークマンで聴きながら、僕は世界が急に鮮やかに輝き始めたのを感じた。車窓にはずっと、大阪湾が午後の太陽を反射させていた。
夏を経て秋になり、やがて季節が冬になる間に、僕は彼女の携帯アドレスを聞き、帰りのバスで話したり、明石の街を歩いたりした。
でも結論から言うと、僕のその想いは成就しなかった。
2月に思い切って告白したのだけれど、僕は見事にフラれてしまったのだ。
彼女は高校を卒業し、西宮にある女子大に進学した。僕は二年生になった。
それから僕らは、当然のことながら疎遠になってしまったのだけれど、実は後日談がある。
この後日談は正直なところ、あまりハッピーな話ではない。
僕は三年後(浪人したので)に京都に大学進学が決まり、海辺の町を離れる前にふと思い出して彼女に手紙を送った。彼女はちゃんと返事をくれて、これから就職活動なのだと書いていた。大学生活は充実しているみたいだった。トルコに行った時の写真も同封されていた。
それからまた時は流れる。
好き放題した京都での大学生活も終わりに近づき、22歳の僕は就活を離脱して大阪の編集プロダクションで働き始めていた。ある時僕はまたふと彼女のことを思い出し(もちろんもう恋心はなかったけれど、なつかしくなって)メールをしてみた。彼女から返信はあったのだけれど、その文面の何かが僕の中で引っかかった。うまくは言えないけれど、勘みたいなものだ。
僕は気になって手紙を書いて送ってみた。
しばらくして彼女の姉から長い手紙が届いた。
そこに書かれていたのは、とある事件があって彼女は精神を病んでしまった、という事実だった。
彼女は深く傷つき、心を病んでいた。幻聴や幻覚に苛まれ、ひとりぼっちで暗い森を彷徨っていた。
僕は手紙を読んで頭がぐわんぐわんするのを感じた。どうして彼女が病まなければならないんだろう?
僕はそれから、時々彼女に手紙を書いた。彼女も時々弱々しい字で手紙を書いて送ってくれた。
彼女が自分の写真を同封してくれることもあった。
そこに写った彼女は、もう以前ほど美しくはなかった。17歳の、あの海辺のバスで天使のように見えた彼女はもういなかった。
今思えば、あの帰りのバスで見た彼女の一瞬の美しさは、本当に本当に儚い大切なものだったのだ。
誰かがあの美しい輝きを邪悪なものから守らなければならなかったのだ。でもそれは永遠に失われ、二度と戻って来ない。僕はあの海辺を走るバスで見た彼女の横顔を思い出す度に、たまらなく哀しい気持ちになる。
7月3日の彼女は、一体どこに行ってしまったんだろう?
あー、ずいぶんセンチメンタルな話になってしまった。
まあいいか。今日はこのへんで。
販促やら期末テストの対策やら、頼まれていた文書の翻訳作業(昨日の夜中の3時過ぎに完成した)やらで結構タフだった今週ももう終わり、そして6月も来週で終わり。
そういえば、昨日扇風機を出した。
夜中にあまりにも蒸し暑かったので。たぶんそう遠くないうちにエアコンも再稼働ということになるだろう。扇風機の音って、夏が来たんだなという感じがする。
そんなこんなしている間に、日本はまたどんどん悪い方向に進んでいるみたいだ。
安倍政権と彼らを支持する人々は、日本が「シンガポール的に金儲けがうまくて北朝鮮的に統制されたトガった国」になることをのぞんでいるのだろう。彼らの主張は愛国でもなんでもない。現に彼らの導きによって日本は世界の国々からの尊敬を急速に失いつつある。僕は愛国者なので、日本がアジアの盟主として成熟した民主主義国となり「やっぱり日本は文明国だな」と思われるような誇り高い国であって欲しいと思う。でも現状は真逆の方向へ進んでいる。
彼らは心の底で「日本なんか一回ぐちゃぐちゃになりゃあいいんだ」と思っているんじゃないかと思いたくなるくらい狂気じみている。
百田さんの言動とか、もう触れたくもないけれど、ああいう「なんでも言っちゃうもんね!」的馬鹿が大声で威張り出すと、いよいよ世も末だという感じがする。
そして僕が一番怖いのは、そういう連中に喝采を送る大衆がかなりの数いるということだ。
歴史が教えてくれるように、そういう人々が最終的に国を滅ぼすことになる。
僕にできるのは、そういう馬鹿を自分のまわりや教え子から出さないように働く、という地道な作業だけだ。邪悪なものと戦える知性と良心を持った文明人が一人でも増えればいいな、と思って頑張ろう。
僕は本来「うち、ブライアン・ジョーンズの、チェンバロの音のごたる感じで、生きていきたかとよ」な人間で、旅とか芸術とかおいしいものとかの話ばかりをしていたいんだけど、今の日本があまりにも危なっかしいので、こんな憂鬱な話ばかりになってしまう。うーむ。
いまや満天下腐敗せり。
これが為めに涙をそそぐもの幾人かある。君等よろしく改革家となりて,此の不潔なる天下を一掃したまへ。決して名利に汲々たる軽薄児の轍を踏みたまふなかれ(新島襄)
そういえば、昨日扇風機を出した。
夜中にあまりにも蒸し暑かったので。たぶんそう遠くないうちにエアコンも再稼働ということになるだろう。扇風機の音って、夏が来たんだなという感じがする。
そんなこんなしている間に、日本はまたどんどん悪い方向に進んでいるみたいだ。
安倍政権と彼らを支持する人々は、日本が「シンガポール的に金儲けがうまくて北朝鮮的に統制されたトガった国」になることをのぞんでいるのだろう。彼らの主張は愛国でもなんでもない。現に彼らの導きによって日本は世界の国々からの尊敬を急速に失いつつある。僕は愛国者なので、日本がアジアの盟主として成熟した民主主義国となり「やっぱり日本は文明国だな」と思われるような誇り高い国であって欲しいと思う。でも現状は真逆の方向へ進んでいる。
彼らは心の底で「日本なんか一回ぐちゃぐちゃになりゃあいいんだ」と思っているんじゃないかと思いたくなるくらい狂気じみている。
百田さんの言動とか、もう触れたくもないけれど、ああいう「なんでも言っちゃうもんね!」的馬鹿が大声で威張り出すと、いよいよ世も末だという感じがする。
そして僕が一番怖いのは、そういう連中に喝采を送る大衆がかなりの数いるということだ。
歴史が教えてくれるように、そういう人々が最終的に国を滅ぼすことになる。
僕にできるのは、そういう馬鹿を自分のまわりや教え子から出さないように働く、という地道な作業だけだ。邪悪なものと戦える知性と良心を持った文明人が一人でも増えればいいな、と思って頑張ろう。
僕は本来「うち、ブライアン・ジョーンズの、チェンバロの音のごたる感じで、生きていきたかとよ」な人間で、旅とか芸術とかおいしいものとかの話ばかりをしていたいんだけど、今の日本があまりにも危なっかしいので、こんな憂鬱な話ばかりになってしまう。うーむ。
いまや満天下腐敗せり。
これが為めに涙をそそぐもの幾人かある。君等よろしく改革家となりて,此の不潔なる天下を一掃したまへ。決して名利に汲々たる軽薄児の轍を踏みたまふなかれ(新島襄)
どうも、ちょっと間が空いてしまいました。というほどでもないか。
沖縄のこととか憲法のこととかを書こうかとも思ったんだけど、疲れている時だと攻撃的になってしまいそうなので、やめておきます。疲労時や寝不足時に人間は攻撃的になるもので、そういうコンディションの時に重要なメッセージを発しない方がいいよ、というのが僕の経験則みたいなもんです。ほんまに。
ちゃんと眠ったりおいしくてまっとうなものを食べたり人と楽しく会話したり、というのは精神的に「まとも」であるための基本だ。
…という流れで気分が乗ってきたら、こないだ食べた「ドンナロイヤ」のおいしいイタリアンのことでもほのぼの書こうかなと思ってたんだけど、明日もちょっと忙しいから今日のところは早めに寝てしまおう、と思い直したので、またその話は別の機会に。
僕のことを「食べ物にこだわる」みたいに思っている人もいるみたいだけど、美食とか高級料理とかは実はどうでもよくて、「 ちゃんと作られたまっとうなものを食べる時に幸せを感じる」、というだけのことなんです。ほんまに。
というところで今日はもう終わり。
こういうだらだらしたブログもいいかもな。
沖縄のこととか憲法のこととかを書こうかとも思ったんだけど、疲れている時だと攻撃的になってしまいそうなので、やめておきます。疲労時や寝不足時に人間は攻撃的になるもので、そういうコンディションの時に重要なメッセージを発しない方がいいよ、というのが僕の経験則みたいなもんです。ほんまに。
ちゃんと眠ったりおいしくてまっとうなものを食べたり人と楽しく会話したり、というのは精神的に「まとも」であるための基本だ。
…という流れで気分が乗ってきたら、こないだ食べた「ドンナロイヤ」のおいしいイタリアンのことでもほのぼの書こうかなと思ってたんだけど、明日もちょっと忙しいから今日のところは早めに寝てしまおう、と思い直したので、またその話は別の機会に。
僕のことを「食べ物にこだわる」みたいに思っている人もいるみたいだけど、美食とか高級料理とかは実はどうでもよくて、「 ちゃんと作られたまっとうなものを食べる時に幸せを感じる」、というだけのことなんです。ほんまに。
というところで今日はもう終わり。
こういうだらだらしたブログもいいかもな。
国立大学の人文系学部が「見直し」される方針らしい。
政府にとっては、人文科学を学んだ者なんて社会のニーズに対応していない夢想家、あるいは穀潰しみたいなもんなんだろう。「金にならんもんはいらん」という経済効率主義は、学歴やアカデミズムに対するルサンチマンを抱える(たぶん)安倍さんが率いる現内閣の精神的支柱となっている。
人文系学部の見直しには二つの目的があると思う。
まずは今書いたように、社会の役に立たない(つまり金に結びつかない)学問のための学問なんかいらんということ。そして、自分の頭で考えられる国民を減らすことで、政府がコントロールしやすい社会を作り出すこと。
人文系、特に僕が学んだ文学部なんてものは、批判するのが仕事だ。
政治に関わらず、社会制度でも芸術作品でも歴史でも、自分が当たり前のように思っている枠組みを取り外して検証して議論して、深く探求するための知的訓練こそが、文学部での学びというものだ。僕自身のことを振り返ると、はっきり言って「稼ぐ」ためにはまったく役に立たなかったけれど、4年間このような勉強ができたことは、僕にとってかけがえのない財産となっている。
たしかに文学部なんてぼんぼんの道楽なのかも知れない。けれど、こうした学びの場があることで僕らの世の中は微妙なバランスを保っている。炭坑のカナリヤのように、社会の変化や危険信号をいち早く察知して知らせるのも、人文系の人間の大切な仕事のひとつだからだ。
国民の大多数が知的訓練も受けず批判的精神を持たない羊の群れであれば、ナショナリズムを煽るのも簡単で戦争しやすくなるし(ヤンキーは「大和魂」みたいなのが好きだ)、大企業は海外に拠点を移さなくても国内で低廉な労働力を使い捨てできるようになる。一方で先端的な理系の研究には国からどんどん資本を注入して、海外の大学ランキングとかノーベル賞とかで競争力を増すことができる。選択と集中、新自由主義者の十八番だ。
そうすれば政府は政治学者や文学者なんかの批判も気にせず、判断力の低い国民の支持さえ盛り上げればいいのだから、これ以上都合のいいことはない。
今の世の中も、経済効率主義こそ優先すべきと当たり前のように考える人が多いから、おそらくこうした改革はそれなりの支持を得て進められていくだろう。そしてこのようにして、国立大学は学問の場としての磁場を失っていくだろう。でももう、国立大学はそういう風になっていけばいいと思う。
さて、ここで立ち上がるべきは伝統ある私立大学…という話に持って行きたいけれど、ちょっと長くなるのでまた別の機会に。
政府にとっては、人文科学を学んだ者なんて社会のニーズに対応していない夢想家、あるいは穀潰しみたいなもんなんだろう。「金にならんもんはいらん」という経済効率主義は、学歴やアカデミズムに対するルサンチマンを抱える(たぶん)安倍さんが率いる現内閣の精神的支柱となっている。
人文系学部の見直しには二つの目的があると思う。
まずは今書いたように、社会の役に立たない(つまり金に結びつかない)学問のための学問なんかいらんということ。そして、自分の頭で考えられる国民を減らすことで、政府がコントロールしやすい社会を作り出すこと。
人文系、特に僕が学んだ文学部なんてものは、批判するのが仕事だ。
政治に関わらず、社会制度でも芸術作品でも歴史でも、自分が当たり前のように思っている枠組みを取り外して検証して議論して、深く探求するための知的訓練こそが、文学部での学びというものだ。僕自身のことを振り返ると、はっきり言って「稼ぐ」ためにはまったく役に立たなかったけれど、4年間このような勉強ができたことは、僕にとってかけがえのない財産となっている。
たしかに文学部なんてぼんぼんの道楽なのかも知れない。けれど、こうした学びの場があることで僕らの世の中は微妙なバランスを保っている。炭坑のカナリヤのように、社会の変化や危険信号をいち早く察知して知らせるのも、人文系の人間の大切な仕事のひとつだからだ。
国民の大多数が知的訓練も受けず批判的精神を持たない羊の群れであれば、ナショナリズムを煽るのも簡単で戦争しやすくなるし(ヤンキーは「大和魂」みたいなのが好きだ)、大企業は海外に拠点を移さなくても国内で低廉な労働力を使い捨てできるようになる。一方で先端的な理系の研究には国からどんどん資本を注入して、海外の大学ランキングとかノーベル賞とかで競争力を増すことができる。選択と集中、新自由主義者の十八番だ。
そうすれば政府は政治学者や文学者なんかの批判も気にせず、判断力の低い国民の支持さえ盛り上げればいいのだから、これ以上都合のいいことはない。
今の世の中も、経済効率主義こそ優先すべきと当たり前のように考える人が多いから、おそらくこうした改革はそれなりの支持を得て進められていくだろう。そしてこのようにして、国立大学は学問の場としての磁場を失っていくだろう。でももう、国立大学はそういう風になっていけばいいと思う。
さて、ここで立ち上がるべきは伝統ある私立大学…という話に持って行きたいけれど、ちょっと長くなるのでまた別の機会に。
今日は「きれいめカジュアル」について書こう。
と言っても、ファッションの話ではぜんぜんない。
結構前の話なんだけれど、ある時女友達(今は関わりがない)としゃべっていて、僕が知らない、その子の友人の話題になった。僕がイメージを掴むために、「どんな子?」と聞くと、その女友達はこう言った。
「うーんとね、きれいめカジュアルな感じ」
その答えに僕はちょっとびっくりしてしまったんだけど、あるいはある種の女の子の間では、ファッションの系統によってその人のキャラクターを表すのが普通のことなんだろうか?
僕としては、その人となりが分かるような雰囲気なりエピソードなりを聞きたかったんだけれど、彼女はそれをファッション誌的用語で見事に言い切ろうとしたわけだ。
気にして見てみると、僕らの周りでは色んなカテゴリー分けがなされている。
メディア主導のものとしては、件のファッション用語のほかにも、血液型とか草食系男子とかリケ女とか(ロールキャベツ男子なんてあほらしいのもありましたね)、その他もろもろのカテゴリー分けが世をにぎわせている。
確かに誰かが作ったカテゴリーにすとんと分類することで、複雑なパーソナリティを説明する手間がうんと省けるし、言い表せなかったものに名前をつけることで視界が一気に開けるような気持ち良さもある。それに、名前を付けて整理するのは学問の基本的な姿勢でもある。
でも、冗談半分にそんなカテゴリー分けを日常的に繰り返して行くことで、僕らはどんどん窮屈になってしまうんじゃないだろうか? 人は「私はこういう人間です」と宣言した瞬間から、知らずのうちにその宣言に自縛することになる。「私は何をやってもうまくいかない人間なんです」と言う人は、無意識のうちに「何をやってもうまくいかない人間」であろうとするものだ。僕らはそれを言霊と呼ぶこともできるし、ある種の「呪い」と呼ぶこともできる。
カテゴリー分けを他人に向かってするということは、他人を呪うということである。
ファッション用語ならまだ害は少ないけれど、カテゴリー分けという呪いは最近どんどん勢いを増しているように見える。
政治的なところでは右翼と左翼はもちろん、推進派と反対派の対立(例えば原発や普天間基地、都構想から憲法改正まで)が煽られて、敵愾心が高まっていくばかりだ。どちらかに強行にカテゴリー分けしてしまった時点で、お互いの陣営が呪いを掛け合うような不毛な事態を生んでいる。本当ならどっちにもおさまりきらないグレーな領域が相当あるはずなんだけど。
反日とか在日とか、そういうのをひとくくりにカテゴリー分けして攻撃するというのも、呪いが先鋭的に現れた現象だろう。その中にも色んな人間性の、色んな思想の人がいる、というのは冷静に考えれば誰でも分かるはずなのに。
また、ちょっと話はズレるかも知れないけれど、性同一性障害とか発達障害とかアスペルガー症候群とか、そういうカテゴリー分けをすることが、学校教育の場で彼らを「違うもの」として隔離してしまうことになるんじゃないかな、とも思う。治療の面ではそういうカテゴリー分けは必要なんだろうけど、それを同級生が知る必要があるのだろうか。僕が中学一年の時の三年生に自閉症の子がいたんだけれど、彼は「自閉症という病気の子」ではなく「ちょっと変わった子やねん」というスタンスでみんなの中に入り同級生に愛されていた(ちなみに、彼らの話はその後絵本になった)。その子にとっても、同級生の市民的成熟にとっても、それはすごく良かったんじゃないかと思う。
彼らは呪いにかからずに済んだのだ。
あー、また長くなってしまった。
でも僕は、誰も彼もがカテゴリー分けされたガチガチの世の中よりも、「みんなどこかちょっとヘンなとこはあるよね」的なマイルドでグレーな世の中の方がうんと暮らしやすいと思うんだけど、どうでしょう?
と言っても、ファッションの話ではぜんぜんない。
結構前の話なんだけれど、ある時女友達(今は関わりがない)としゃべっていて、僕が知らない、その子の友人の話題になった。僕がイメージを掴むために、「どんな子?」と聞くと、その女友達はこう言った。
「うーんとね、きれいめカジュアルな感じ」
その答えに僕はちょっとびっくりしてしまったんだけど、あるいはある種の女の子の間では、ファッションの系統によってその人のキャラクターを表すのが普通のことなんだろうか?
僕としては、その人となりが分かるような雰囲気なりエピソードなりを聞きたかったんだけれど、彼女はそれをファッション誌的用語で見事に言い切ろうとしたわけだ。
気にして見てみると、僕らの周りでは色んなカテゴリー分けがなされている。
メディア主導のものとしては、件のファッション用語のほかにも、血液型とか草食系男子とかリケ女とか(ロールキャベツ男子なんてあほらしいのもありましたね)、その他もろもろのカテゴリー分けが世をにぎわせている。
確かに誰かが作ったカテゴリーにすとんと分類することで、複雑なパーソナリティを説明する手間がうんと省けるし、言い表せなかったものに名前をつけることで視界が一気に開けるような気持ち良さもある。それに、名前を付けて整理するのは学問の基本的な姿勢でもある。
でも、冗談半分にそんなカテゴリー分けを日常的に繰り返して行くことで、僕らはどんどん窮屈になってしまうんじゃないだろうか? 人は「私はこういう人間です」と宣言した瞬間から、知らずのうちにその宣言に自縛することになる。「私は何をやってもうまくいかない人間なんです」と言う人は、無意識のうちに「何をやってもうまくいかない人間」であろうとするものだ。僕らはそれを言霊と呼ぶこともできるし、ある種の「呪い」と呼ぶこともできる。
カテゴリー分けを他人に向かってするということは、他人を呪うということである。
ファッション用語ならまだ害は少ないけれど、カテゴリー分けという呪いは最近どんどん勢いを増しているように見える。
政治的なところでは右翼と左翼はもちろん、推進派と反対派の対立(例えば原発や普天間基地、都構想から憲法改正まで)が煽られて、敵愾心が高まっていくばかりだ。どちらかに強行にカテゴリー分けしてしまった時点で、お互いの陣営が呪いを掛け合うような不毛な事態を生んでいる。本当ならどっちにもおさまりきらないグレーな領域が相当あるはずなんだけど。
反日とか在日とか、そういうのをひとくくりにカテゴリー分けして攻撃するというのも、呪いが先鋭的に現れた現象だろう。その中にも色んな人間性の、色んな思想の人がいる、というのは冷静に考えれば誰でも分かるはずなのに。
また、ちょっと話はズレるかも知れないけれど、性同一性障害とか発達障害とかアスペルガー症候群とか、そういうカテゴリー分けをすることが、学校教育の場で彼らを「違うもの」として隔離してしまうことになるんじゃないかな、とも思う。治療の面ではそういうカテゴリー分けは必要なんだろうけど、それを同級生が知る必要があるのだろうか。僕が中学一年の時の三年生に自閉症の子がいたんだけれど、彼は「自閉症という病気の子」ではなく「ちょっと変わった子やねん」というスタンスでみんなの中に入り同級生に愛されていた(ちなみに、彼らの話はその後絵本になった)。その子にとっても、同級生の市民的成熟にとっても、それはすごく良かったんじゃないかと思う。
彼らは呪いにかからずに済んだのだ。
あー、また長くなってしまった。
でも僕は、誰も彼もがカテゴリー分けされたガチガチの世の中よりも、「みんなどこかちょっとヘンなとこはあるよね」的なマイルドでグレーな世の中の方がうんと暮らしやすいと思うんだけど、どうでしょう?