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灯りの場所まで、つなわたり。

カナダで学んだ精神、新島襄の志、内田樹先生の思想を混ぜ合わせて、新しい私塾を開こうと考えている僕が、日々思うこと。

すごく嫌な感じのする「資料」を見た。

首相官邸の教育改革国民会議の中の「一人一人が取り組む人間教育の具体策(委員発言の概要)」のことだ。

内容をざっと読むだけで、どんな人間がこれを提言したのか首を傾げてしまうようなものが見つけられる。
・「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
・子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
・名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する 
・一定レベルの家庭教育がなされていない子どもの就学を保留扱いする

…などなど。
挨拶をしっかりする、など常識的なことももちろん多く挙げられているけれど、それらの合間合間には、上にあげたような反知性的で強権的な言葉が散りばめられている。


これは現代に蘇る「教育勅語」だ。
国家がコントロールしやすいアホで従順な国民を効率的に生み出そうとしている。国の方針を担っている人たちが「飼い馴らす」なんていう表現をしていることからもそれは明らかだ。
こんな人たちが教育を「改革」しようとしているのだ。

民主主義が正しく運用されるには、自分の頭で考えることのできる独立自由の成熟した市民が一定数存在しなければならない。そうした「大人」がいなければ、選挙をしたって「なんか変えてくれそう」みたいな感覚的な理由で、煽動型のポピュリストに権力を与え、結局は国を滅ぼしてしまうことになる。現に日本は10年前くらいからそういう「空気」になりつつある。


そんな幼稚な国民が、「待ったなし」で憲法を作り替えたり海外で軍事行動を行えるようにしたりという重大な決定を行うべきではないだろう。ことの順番が逆だ。
「民主主義の成熟度において日本はまだ12歳」というマッカーサー元帥の言葉は、「精神年齢のこと」と誤解されて日本人の心に深いトラウマを残したけれど、それが今になって急にリアリティを帯びて響いてくる。僕はこの言葉を、「マッカーサーから日本の民主主義の未来によせた期待のメッセージ」と読みたい。
でも敗戦の12歳からスタートした僕らの民主主義は、ほんとうに成熟するための努力を積み重ねて来たのだろうか? 
僕らはあまりにも「成長」にとらわれすぎて、「成熟」を軽んじてきたのではないか?



…というところで、実はつづきをまだ長々と書いたのだけれど、あまり長くなってもクドいので、一旦ここで切り上げます。つづきに書いたことは、また改めて別の記事で。
今日はいい天気だった。



暑くもなく寒くもなく晴れ渡る、これほど気持ちがいい気候というのは、実際一年のうちにどれくらいあるだろう?
4月の後半から梅雨入りまでのこの時期と、10月くらいにトータルで2週間もあればいい方で、そんな日があったとしても今日みたいに仕事で室内にいなきゃならなかったりとかで、素晴らしい天気を存分に楽しめるのは、人生のうちのほんの僅かな日数になるのかも知れない。
でもまあ、そんな風に思うのは、僕が天気やら季節やらのコンディションでずいぶん機嫌が良くなったりする単純な人間だからかも知れない。
風が気持ちいいだけで、世界を祝福したり、嫌いなものを許したり、なんだかこれからいいことありそうな気分になる。まあ、実際はそんなにうまくはいかないもんだけど。

荒井由実の名曲『やさしさに包まれたなら』って、朝起きると天気が良くて、ただそれだけで幸福な、懐かしい気持ちを思い出す、そういうなんとも言えない気持ちを歌っているんじゃないかなあ、と思う。それほど歌詞に深い意味はなくて、ただその時の心のあり方を、論理的ではなく感覚的に、鮮やかに匂うように描いている。
荒井由実とか草野正宗みたいな「美術系」ソングライターって、そういうのが本当にうまいよなあ。

なんだか全然関係ない話になった。
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基本的にアップした記事はそちらで共有しているので。
こっちのコミュニケーションも活発になればいいなあ。

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件の大阪都構想が反対多数となりましたね。

反対多数となったものの、賛成も僅差で70万近く入ったという。
70万と言えば政令市の岡山市や静岡市と同じくらいだから相当なもので、そういう意味では大阪市を分断してしまう大変な住民投票だった。詳しい分析はこれから色々なところでなされていくだろうけれど、「既得権益を守る強欲な老人たちによってつぶされた」みたいな単純化した結論が出て、更なる対立を生む流れが出てきそうな予感。そういう面もなくはないはずだけど。
まあ、僕は大阪市民ではないので、エラそうなことを言うのはこのへんでやめとこう。


さて。
そんな重大な局面を迎えつつあった大阪で、今日は久しぶりに会う友人とぶらぶら。
難波や心斎橋の喧噪を離れ、堀江のしゃれおつなカフェでうだうだしたり。


晩はリバーサイドのレストランバーでまったりしたり。


…なんか飲みもんの写真ばっかりになってしまった。

大阪で働いていた頃はキタが拠点だったけれど、個人的にはミナミが好きだ。
巨大再開発ですっかり居場所のなくなった梅田と違って、ミナミには人間サイズの泥臭さと洗練が同居している。難波、道頓堀、心斎橋、アメ村、南船場、堀江…とエリアごとにまるで違う顔を見せるので、歩いていて楽しい。
堀江のカフェで外を行き交う多種多様な人種やオシャレな人たちを眺めていると、なんだかんだ言って大阪はやっぱり大都会なんだなあ、と思う。神戸は小綺麗ではあるけれど、そういう面では自己完結的な地方都市だ(まあ、そのサイズがちょうどいいんだけど)。

そんな堀江から川沿いを少し歩けば、猥雑極まる道頓堀のネオン街。


大阪のこういうカオスは、やっぱりこれからも大阪らしくあって欲しいな、なんてヨソモノは思うのです。
「人材」という言葉が、あまり好きではない。

少し前の話になるけれど、今年あった川崎の殺人事件の犠牲になった少年に対して、テレビでこんなコメントがあったと聞いてちょっとびっくりした。

曰く、「人望もあって、将来優秀な人材になれそうな男の子だったのに残念です」。

この表現にどれくらい違和感を持った人がいたのかは分からないけれど、もしなんとも思わなかった人が多数派だったのだとしたら、世の中がちょっと殺伐としてるなあと思う。

人材というのは、企業の利益に貢献できる人間という意味で、本来は雇用する側が使う限定的な表現であるような気がする。人材という言葉の芯にあるのは、その人の「使える」あるいは「稼げる」能力のことであって、その人が持つパーソナリティみたいなものではない。コーヒーが好きとか年寄りに優しいとかロシア文学に詳しいとかテニスがうまいとか笑顔が素敵とか、そういうもろもろは「人材」という言葉の前には何の意味も持たない。「人材」が必要としているのはTOEICの点数とかプレゼン能力とか、そういうプラクティカルなものだけだ。


だから、人材という言葉を企業が使うのはもちろん結構だけれど、ビジネスに関係のない文脈で使うことにはやっぱり抵抗を感じる。最近よく目にする「私は世界で活躍できる人材になりたい」とか「本校では優秀な人材を送り出している」なんていう使い方はちょっと気持ちが悪いなあ、と思ってしまう。

そう言えば、近頃はどこの大学も「グローバル人材育成」に力を入れるのが流行みたいになってますね。企業の要請もあったり、学生も就活に必死だったりというので大学もそうせざるを得ないのだろうけど、学究の場にあまりビジネスマインドを入り込ませないで欲しいなあ、と思う。
僕の母校の同志社も他聞にもれず「グローバル人材育成」方面に進んでいるみたいだけど、創立者の新島襄(このブログではシツコく引用します)は明治時代に真逆のことを言っていた。

『教育の目的は、智徳併行にして人物養成の一点に止まれり。人才(材)養成にあらず、人物養成の意なり。(「新島襄の手紙」P247)』


「人材」に比べて「人物」って、いい言葉だなあ。