勝田駅前の寅さんラーメン。
現在は玄海のオーナーの長井さんがスタミナの創始者として、味のある性格も含めてカリスマ的人気を誇っていますが、当時は雇われ店長でした。
矢沢永吉をひょろっとさせた感じの舌足らずな喋り方、長身。
昔は、ハーレーダビッドソンに乗っていて、店の前に横付けしていました。
よくビールを飲みながら作っていたんですが、あのままバイクに乗って帰っていたのでしょうか?
昭和50年代はまだおおらかな時代で、大学の新入生歓迎会で未成年が沢山酒を飲むのが公然と許される時代でしたから、誰も文句は言ってはいませんでした。
それより、飄々としたオヤジさんのキャラクターが良かったですね。
私の高校三年生の時、長井さんが長期入院しました。
この時に来たのが町田さん。
物静かで研究熱心な方で、レバニラと玉ネギの餡掛けだったスタミナに、現在の定番になっているカボチャ入りにしたのが、町田さんです。
この人になって、玉ねぎが無くなり、餡が多くなり、ボリュームも増えました。
逆に餡のボリュームが増えた事で冷やしの麺だけが残る事なく沢山食べれました。
この時、私は七個二回、八個半を一回食べています。
勝田高校応援団の大食いが話題を呼んだのも、この頃でした。
昨日と今日の昼も書きましたが、町田さんはタダ同然で八百屋からカボチャを譲り受けてスタミナラーメンに入れてみました。
大抵、土曜の夕方勝田高校応援団の練習帰りの貸し切り(二十人入れば満杯の所に二十人以上でいくので満員貸し切りになってしまうのでした)の時に、実験が始まります。
カボチャの他にも、シナチク、きくらげ、シイタケ、酢豚風角切り豚、色々な物を試食しました。
どう、美味い?
スタミナラーメン好きの我々も、色々と忌憚のない意見を言わせてもらいました。
そうして、今のスタイルになったのと壁一杯に貼り紙で溢れたのが昭和56年の事でした。
もっとも、寅さんラーメンらしい時代が、昭和56年からの数年間だったと思います。
ところで、スタミナラーメンの起源ですが、今でも、ひたちなか市の六号国道沿いにある寅さんラーメンのオーナーのゴルファーの中村さんという方が遠征先で食べた餡かけラーメンが美味しくて、もっと違った発想で独自の味の餡掛けの美味しいラーメンを、と作らせたと聴いたことがあります。
オーナー一家は勝田駅前に住んでいました。
オーナーの発案と長井さんと町田さんの合作を経てスタイルが固まったというのが真相だと思いますね。
ちなみに、長井さんは長崎出身で東京に出て中華料理の料理人をやっていましたが、1973年に東京から水戸の高島屋に来て食堂を任され、高島屋が水戸から撤退して1978年に「大進」という店に招かれて行ったのだそうですが、その店のオーナーも中村さん。
餡かけスタミナラーメンの発想を実現する良い料理人が長井さんでした。
やがて、店は大人気。
ほどなく、いつも仕入れに行っていた直ぐ近くの八百屋の持っていた向かいの自転車の駐輪場前の店舗を、八百屋の店主が長井さんを気に入って貸してくれて「寅さんラーメン」になったのだそうです。
長井さんの抜けた後の大進は直ぐにオーナーが手をまわして当時水戸駅前にあった西友の洋食のシェフだった方が、大進に来て今でも夫婦で店を切り盛りしているそうです。
長井さんは大進のマスターには何も教えなかったそうで、独自に作られたとの事で、今でも寅さん系(1987年に長井さん創業の松五郎も勿論作り方はこの系統ですね)と大進は違った作り方のスタミナです。
オーナーは出資はするが店の経営には一切口を出さなかったそうですが、長井さんが倒れて店を休んでいた一年間は社長一族はみんなで手伝っていました。
私の高校の頃、当時二十代前半の綺麗な娘さんがたまに買い物の手伝いをしている事がありました。
あの子、社長の娘だ、と町田さんから聞きました。
『応援団、買い物手伝って!』
と、オーナーの娘さんに言われて、頼まれたら嫌とは言わない私は何度か荷物持ちをしました。
学ランに髭を生やした本宮ひろしの漫画から出て来た様なむさ苦しい男が食事後に買い物の荷物持ちをして、美女と野獣だとか笑われましたね。そして帰りがけにお菓子をもらって食べながら帰ったのでした。
なんだか、あの頃をだいぶ思い出して来ました。
あのお姉さんは、今は五十過ぎなんだろうなあ。
記憶は面白いもので、当時のまま躍動している思い出があります。
後になって、拓大の茨城の同窓会で、4年上のラグビー部の先輩の彼女だったと聴きました。
美しさもあってか、湊の女子高でブイブイ言わしていたとか。
人のつながりって、怖いです。
勝田の田彦にある寅さんラーメンは、勝田駅前の寅さんラーメンで町田さんが1ヶ月ずつ何人か教えていましたから、勝田駅前の寅さんラーメンに一番近いのは田彦の寅さんラーメンだと思います。
しかし、ヤッパリ人と人のつながりは大事ですよね。
町田さんは長井さんの復帰と共に、夫を亡くして女手一人で子供を育てる為に義理のお姉さんが始めた茨城町の水車のマスターになり、餅入りスタミナを出し、大人気となりました。今は、子供も独立して店は閉じ、町田さんは料理人として別の店に勤め、スタミナからは一線を画しています。
長井さんは1987年に独立して水戸の見和に松五郎を出し、その後の事はネットで容易に確認出来ます。
私にとって、母と同い年の昭和十三年生まれで父みたいなものです。
二人共、寅さんラーメンを卒業して、常に高校生で一杯で活気溢れた寅さんラーメン勝田駅前店は幕を閉じたのでした。
長井さんが勝田駅前の店を去った後、店の大家の八百屋さんは長井さんに貸したのであってオーナーに貸したわけじゃないという事で、あのまま勝田駅前の店が閉まったままで、田彦の料理人が何人もいても店の再開が出来なかったそうです。
全ての原点は、あそこにあったんですが、色々な人間模様の詰まった場所でした。