宇治鳳凰ロータリークラブ卓話集

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 こんにちは、本日はお招きいただきましてありがとうございます。短い時間ですがよろしくお願いいたします。林さんとお知り合いにならしていただいた時には私の頭の上はもっと黒々してました。とても今のようなことを考える年ではなかったんですが近頃はどこへ行っても少子高齢化ということです。私が今住んでます平城ニュータウンは、高の原駅ができたのは実は昭和47年から開発の始まった新しい街なんでが、今急速に、少子高齢化が進んでいます。幼稚園なんか、今年の入園者はわずか7人なんですね。もう、すごいスピードで少子化が進んでいます。

 ところで、少子高齢化と言いますけど、何歳まで生きるのでしょうね。まあ、何となく、男だったら平均寿命の80位かなと思ってる方が多いんじゃないでしょうか。実はイギリスのエコノミスト社が出したレポートでは富裕な国では2050年、今から35年先には、多くの人が100歳まで生きるだろうと言っています。2050年といえば、私は102歳になります。多分、私も生きているだろうと思っています。そうすると「老い支度の法律相談」なんて話、必要なしかどうかわかりませんが、林さんから、「相続が争続」にならないような話をするようにということを言われてきましたので、遺産相続等の話をさせていただきます。

 相続が法律上どうなってるか、そういうことが前提になるんですが、与えられた時間30分ですのでこれを全部話したらとても30分で話ことはできません。それで、若干皆さんが気づいておられないようなことを中心に本日は話させていただきたいと思っています。

 まず、今年は戦後70年です。けれどもいまだに家督相続という発想の方がおられるんですね。「うちの娘、もう嫁に行って、姓変わってるんですけど、この子にも相続権ありますやろか」とそういう質問をいまだにされる方があります。それは戦前の家督相続の時代、家制度の時代の発想ですね。戦後は家制度がなくなりました。だから当然家督相続ということもなくなって財産相続なんですね。だから結婚して家を出ているとか、或いは姓が違うかとか、そんなことは全く関係がありません。単に「身分関係」だけで相続権が発生する、発生しないということになります。

 次に相続されるのは何かということなんですが大体皆さんが頭に浮かぶのは「ようけ財産入って来たらええのになぁ」と、そちらを思われるんですね。ところがそれだけじゃないんです。権利があるところには裏として「義務」もあります。だから亡くなられた方が債務をも負っておられたらその債務の方も相続の対象となります。気をつけてもらわんといかんのが「保証債務」なんです。亡くなったお父さんが誰か知り合いに頼まれて事業資金、何千万借りるのに「保証人になってくれへんか。」と頼まれていた。「絶対迷惑をかけへんから。」と言われておられたので、それを信じて気にしておられなかった。だいたい保証人になってくれと頼む人は、迷惑かけると誰もいませんからね。みんな「迷惑掛けない。」と言います。請求を受けた時に「迷惑をかけへんと言われたのに、だまされた。」こんなこと言うたって全然通用しませんからね。保証というのは大体万一のため保証つけるわけですから。

 親父が誰かの保証人になっとって、亡くなったらどうなるのかなんですね。亡くなった時点でああ、親父、家やその他財産残してくれた。ああ、よかったな。じゃあ、みんなでこれを分けようかといって遺産の分割をしました。ところが何年か経ってある金融機関から、あなたのお父さんは、誰それさんの借入金の保証されてました。その方がこの度倒産しました。つきましては保証人の相続人であるあなた様に「お支払い」をお願いいたします。そういうことが来るんですね。だから保証されてる場合にはやはり保証人になってるということをちょっと言うといたらんとあかんのです。この人が沢山の財産残しはって、、保証の金額は少なかったら、プラスとマイナスを比べたら相続するプラスの方が多いのでいいんですけども、逆に何百かぐらいの遺産しかなくて保証債務の方が多かった。とても払えないとなると破産せんとあかんということになってしまいます。実はこういう例も見てるんです。あるんですね。そういうことが。だからぜひ気をつけてください。

 次に契約上の地位これもよく聞かれますが、「家を貸していた。借りていた人はこの間亡くなられた。そやから返してもらえますか。」そういう人があります。借家人、或いは借地人という契約者としての地位は相続の対象となります。だから普通に第三者に又貸しするのとは全然違うんです。又貸しする、或いは借家権・借地権を譲渡するということとは違います。相続の場合、契約上の地位が当然移転しますので返してくださいということはできません。

 相続されない権利義務一つは祭祀財産、墓地とかと仏壇、神棚などです。じゃ、どうなるのかというと現に祭祀をしている人が誰かを指定しておれば指定通りになります。指定がされてない場合には慣習によることになります。昔だったら大体長男が家を継いでいるから、家を継ぐ人が祭祀承継者という慣習が認められました。今はだんだん家族もバラバラになってきていますので、慣習がわからないようになるんですね。最近はこの祭祀財産の承継が争いとなっていることがよくあります。取り合いではありません。だいたい押し付け合いなんですね。田舎に墓が残ってる。みんな都会に出てしまっているのでいろいろお寺の関係でも物入りや。お兄ちゃんあんた、長男やから大阪へ出てるけどもちゃんと面倒を見てやとか、そういうことで今の時代は誰がそういうものを引き継ぐのか、非常にシビアな問題があります。

 2人に2人以上の子供が生まれていたらまあ、誰か継ぐ人が順番に出てくるでしょうけども、2人で2人未満の子供が生まれなかったら墓守りやとかする人は足らないのですね。あんまり守ってもらえてそうじゃなかったら生きているうちに守ってもらいやすいような形にしておくとか、いや、笑うたはりますけどね、いろいろあるんですよ、どこかへ預けとくわとか、永代供養に入れてもらうとか、あるいは誰が後、面倒みてくれるという、だからその分財産についてはこんだけお前が取ったらいいというふうに遺言書で書いておこうとか、何かの手当をしとかんとこの祭祀財産の承継についてトラブルが起こってくるだろうと思います。相続であって相続でないのに生命保険金、死亡保険金があります。これは相続でないというのは受取人が契約で決まっています。だから分割の対象にはならない。そういうことです。(税法上は、みなし相続財産とされます)退職金受給権もその会社の規定で決まっています。

 義務の方のも相続しますからプラス財産よりマイナスの方が大きい場合どうすればいいかということなんですが相続開始を知った時から3ヶ月以内に家庭裁判所に相続の放棄の手続をします。理由は何もいりません。単に相続の放棄をしたいと言えばそれだけでいいわけです。原則として3ヶ月以内ですが、例えば先程、親父が保証していた、亡くなってから2年後ぐらいに金融機関から保証人のところへ払えと言ってこられた。そういう場合にも亡くなってから3ヶ月過ぎているんですが放棄を出来る場合があります。

 そういう負債があるということを知らずに、かつ遺産を取得してなかった場合は可能です。だから亡くなった人が中途半端に財産何も持たずに借金だけ持って死んでくれはったら、何年か後にこんな借金があるということがわかったら3ヶ月過ぎていても相続を放棄できます。実は、つい先日も私そういうことで1年以上前に亡くなった方の相続人の放棄の手続きをしました。ただ、なんぼ借金沢山あっても、すでに遺産を取得してしまっておられたらその場合は放棄はできません。

 そうすると次に、何となく借金もありそうなんやけども、財産もある。こんな時どうしたらいいんですかね。はっきり分かっていたらそのプラスマイナス計算して放棄するなりしたらいいんですが借金があるか、わからんけども、ないかもわからん。借金ないのに放棄してしまった。えらいもったいないことになります。国に入ってしまいます。そうかといって借金があったら困るし。そういう場合のために限定承認という制度があります。これは法定相続人全員がそろって、借金がもしあれば財産を相続した限度で皆さんにお支払いしますという制度です。だから遺産全部整理して、例えば遺産1000万あった。で、公告したりして債権者を探すんです。借金が500万だけだったら500万払って残りの500万を相続人がもらえるということになります。逆に遺産が1000万なのに借金の方が2000万あった。こういう場合は遺産を処分した1000万を債権者に配当して、それで終わりです。それ以上の責任は負わなくていいというのが限定承認という制度です。まあ、そういう微妙な時にはこういう制度を是非使われたらと思います。これも3か月以内にしなければなりません。

 誰が相続するだとか、どれぐらい、どういう割合で相続するかとか、この辺のことは皆さんご存知のところだと思いますので省略します。法律が決めてる法定相続分なんかも参考にしながら法定相続人全員で分割の話をされるということになりますがどういうふうに分けるかということですね。お金ばっかりだったら分けやすいですね。ところが困ったことに自宅とか、そういう不動産なんかがある場合ですね。不動産、同じようなものが沢山あればどれを誰が取るのということを決めますが自宅だけしかないという場合、自宅しかないのに子供が2人おる。その時どうしますか。家を半分に割ったって困ってしまいますので、そういう時には全部を売却してお金を分けるとか、或いは一人の人がそのものを取得して対価、お金を他の人に払うとか、そういうことをすることになります。相続人の誰かが、生前に沢山のお金もらっているというケースもよくあります。それを無視して分けていいのかというとそれはやはり不公平ですね。だから相続開始前にまとまった財産をもらっておられるような場合にはそれを特別受益と言いまして相続開始の時の時価で評価して遺産に加えて計算するということになります。逆に親の事業をほとんど給料ももらわずに一生懸命手伝っていた。その結果、事業で得たお金は親の名前で蓄えられていた。そのように親に貢献してきた人の貢献を無視していいのかというとそれもやはり不公平でしょうから被相続人の財産の維持とか形成に寄与した人がある場合にはその分を遺産から除外して計算する制度があります。それが「寄与分」と言われるものであります。

 紛争の予防の方法、遺言の話に入ります。どんな場合に、遺言書を書いといた方がいいのか。昔はそんなに遺言を書くという人はなかったんですが今は書く人も増えていますし、現に書く必要が高くなっていると感じています。一つは皆さんの意識が変わってきたということです。昔は家督相続の長男がするという意識が強かったんですけども今はもうそれぞれ法律の通り、それぞれの人が対等の権利があるということで権利の主張をされるようになりました。それと分けにくい遺産があるケースが多いです。遺産としての主なものが自宅であるというケースですね。そうすると複数の相続人がいると非常に分けにくいですね。そういうこともあるので、そういう場合には遺言書で決めといておかれるのがいいんじゃないかということ。

 もう一つ最近よくあるのが相続人の中に、連絡を取れないという人が増えています。グローバル化という話がありますけども、アメリカに行ってますねんとか、ひどいケースになったら結婚してアメリカへ行ったんやけども、今それがアメリカのどこにいるのかわからない。私も先日そんなケースを扱いました。日本国内におられたら住民票とかそういうもので所在を追っていけますが、長年外国へ行っておられて連絡をとれない場合にその人がどこにいるのか、探すことは非常に困難です。そうすると相続人全員での協議による遺産分割はできないことになります。全くできないのではなく、不在者財産管理人を家庭裁判所で選任してもらうことになるんですが具体的な分け方として非常に困難なことになります。だから、そういうケースではぜひ遺言書でどう分けるかを決めておかれる必要があるかと思います。

 遺言書の方式として多く使われているのが2種類です。自筆証書遺言、公正証書遺言です。自筆証書遺言は全文を自分の手で書かれる必要があります。これについては亡くなった時点で家庭裁判所に検認手続が必要です。公正証書遺言は公証役場で作ってもらいます。宇治でしたら市役所の近くにありますね。そこで書いてもらうというのがあります。自筆証書遺言と公正証書遺言は法律上の効力は一緒なんです。ところが実際に亡くなった後で金融機関で相続の手続き等をする場合にやはり公正証書遺言の方が通りやすいですね。理屈上、遺言書があればその通り金融機関がしてくれたらいいんですけども中にはなんやかんやいうて、もう1回法定相続人全員の印をもらってきてくれと言う金融機関があります。まあ、それやったら何のために書いてもらったのかわからんということになりますがそういうことを避けるために公正証書遺言をしておかれるのが通りやすいと思います。中には極端な内容の遺言書を書かれる人があるんですね。例えば私の頼まれた人は、あるおばあさんで法定相続人としたら、交流のない兄弟一人だったんです。そこで、すべての遺産を社会福祉法人とかそういうところに寄付しますという遺言だったんです。法定相続人については100万円だけ渡すという、そういう遺言書だったんです。そうするとその法定相続人の人は興信所を使って、ほんまにその遺言書通りだったか、本当にその人が自分の意思で書いたのかと、証人で且つ遺言執行者に指定されていた私のところまで調べに来られたこともありました。自筆証書遺言で作っておくと、それが本当にその人の意思で、自由な意思で書かれたのかどうかということを証明することが難しくなります。

 争いが起こりそうな内容の場合には公証人に作っておいてもらうのがいいかと思います。その場合には証人を2人一緒に行くことになりますので、より間違いないということになるかと思います。

 遺言する場合に何を考慮しておかれるべきか、なんですが特に自筆証書遺言で書かれる場合は内容を明確にしておかれること。当たり前のことなんですが、失敗されることがあります。一例ですが、お子さんのないご夫婦のご主人が、全部の財産を奥さんに相続させようと思っておられたんですね。どこそこのマンションやとか、どこそこ銀行の何々口座の通帳とかね、そういう書き方をされていたんです。ところがそのマンションの表示の仕方がちょっとおかしかった。なになに銀行の何なに口座の「通帳」と書かれてたんです。通帳と言ったら紙切れにしかならないのです。通帳もらっても何の意味もありません。通帳記載されているお金を引き出す権利をもらわんことにはあかんですね。中途半端に勉強した方が間違われることになりやすいんですね。自筆証書遺言に書かれた場合には書いたあと、念のために我々弁護士なりに、「これ本当に間違いないか、いいか」というのを確認してもらう方が良いということです。

 それと「遺留分」を考慮しておくこと。遺留分とは遺言書で例えば法定相続人の1人の人に全部あげると書いてあっても他の人も一定の割合に、子供だったら法定相続人の半分ですけども、くれという権利があります。だから相続人、子供が2人いるのに1人に全部を相続させると書いたらね、もう一人の子が、それでいいと思ってる関係ならいいですけども、そういう例は少なく、どっちも欲しいと思ってるのに1人の子に全部相続させると書いたら、後のは、怒りますわな。親父は何考えとんねん。それはけしからんのはそれを書いた親ですけれど、親父はこの世におりませんので、怒りは全部もらうということになった相手に向かい、「わしにも慰留分をよこせ。」という話になります。だからどうせそういう話が出てくるんだったら遺言書を書く段階でそのことも考慮してちゃんと書いておかれた方が余計な紛争にならないだろうと思います。

 それから自筆証書遺言は、自分で書けるんですが、もううちの親末期癌で、もうあと2、3日もつかどうかわからん、そういうケースがあるんですよ。公証人は、病院まで出張してくれるんですが、今日言うて明日行ってくれるか言うたら行ってくれないんです。4日位待たされることがあります。そうするとつい自筆証書遺言ということになりますが、このしんどいのにそんな長い文章よう書かんという人が多いですね。そういう場合は名前だけやったら書けるという人もあります。

 どうしますか。「死因贈与契約」というものがあります。私は自分の財産のうち何々(全部も可能)を、自分が死んだとき〇〇にあげます。〇〇も、じゃいただきますという契約です。そういう契約をするだけだったらその意思能力があって署名だけできれば可能ですので時間のゆとりもないような場合にはそういう方法も考えられたらいいのかなと思います。この場合、やはり実印を押して印鑑証明を添付しておかれる方が望ましい。それプラス第三者のしっかりした人にも立ち会ってもらうのが争いを起こさないことになるのかなと思います。

 老後、いろいろ問題になりますのは、年老いて周りの家族もおらんようになって一人暮らしになってくるとこれは危ないんですね。寂しくなりますので、つい先日、人から、近所の一人暮らしの80何歳のおばさん、危ない。若い男がよう出入りしているけども、ちょっと1回行ってくれんか。といわれ行ったんです。そしたら3年間にその人の預金1億以上減ってました。それは誰が見たってだまされてると思います。もともとは儲け話からやったんです。完全に信用しきって、可愛い、可愛だった.昔、豊田商事事件がありましたけど、それによく似た感じです。誰か、気軽に相談できるしっかりした方と第三者契約されておかれるといいかと思います。

 もう一つ、最近考えておかれるべきこととして、終末期の治療をどこまでしてもらわれるかという問題があります。今、「延命治療は要らん。」そういう方が増えてきていますが、口で言われていただけでは治療現場でお医者さんは困られます。だから具体的に自分はどういう状況でどういう治療まではいらん。そういうことは明確に紙に書いて家族に渡しておかれるとことが大事です。書いてなくて言っておくだけやったら、遺書もそうなんですが効力はありません。一番悪いのは口でお前に何やるということ。そういうことを生前に言うてる親が亡くなった後、これは非常にトラブルがよく起こります。それとはちょっと意味が違いますけども、聞いていた人と聞いていなかった人との間で意見の対立が生じ困ったことになりかねません。ぜひ書いておかれることが大切です。

 ご清聴ありがとうございました。

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 皆さんこんにちは。70年昔のことでございますので、なかなか思い出せないことも沢山あります。それとあまり思い出したくないというのが実は本当の私の心でございます。それはなぜかと言いますと余りにも惨めな生活をシベリアで3年間させていただいた。だからできることならそういう惨めな思いは思い出したくないというのが実際でございます。しかし林さんがどうしても話をしろということでございますので恥ずかしい話ではございますが、捕虜生活とそれから軍隊の生活をちょっとお話をさせていただきたいと思います。

 私は軍隊に入隊いたしましたのは丹波の篠山でございます。当時、丹波篠山は歩兵連隊でございましたけども、私が入隊する時は航空通信の教育隊になっておりまして、私は特別幹部候補生ということで志願をいたしまして特幹で実は入隊をしたわけです。入隊した時にその班の班長さんが軍曹でしたが、その方がおっしゃるのには、軍隊では上官が「雪は黒いといったら雪は黒ろうございます」と言わなんだらこの社会では生活できないのです。そのことでびっくりしました。「雪が黒い!」そんなバカなことがあるかいと思ったらあの社会では生活できない。だから上官の言われることは絶対服従でございまして、何を言われましても「はい」という、そういうことでないと軍隊の生活は成り立っていかないわけです。それを実行はさせていただきました。そして初めの入隊をしてから3日間はお客様扱いをしてくれました。4日目からはあきません。毎晩殴られました。で、何とかかんとかいうてですね、因縁をつけられて、そして殴られるのです。それもね、殴る方も痛いんものですから何人も殴らならいかんもんですからスリッパで殴るんです。ところが軍隊のスリッパは軍隊の靴が古くなったもので、もう履けんようになったやつを上だけとってそれをスリッパにしているもんですから、その裏側には鉄がついております。それで殴られるもんですから、ですからもう顔はですね、何か人の顔を、自分の顔をなでてみましても、何か、象か何かを撫ぜているような状態でございまして、それを丹波の篠山では3ヶ月間実はやられました。軍人精神を注入しちゃるということですね。で、演習に毎日出て行きますので銃とか、あるいは自分の靴とか言うのは汚れます。それらのもの、晩になったら全部晩になるまでに実は綺麗に掃除をして、そしてその点呼に、晩の8時頃の点呼に臨まなきゃいかんのですけども、1人で自分の靴を掃除したり、或いは小銃を掃除したりすることができませんので、みんなが手分けしてお前は靴や、お前は銃をやってくれと手分けして実は掃除している状態でございました。毎日のように晩になりましたら、点呼がありまして、銃の整備はどうか、或いは靴の手入れはどうかということで全部班の偉い人が見て回ります。それで汚れがついていたら、えらいことであります。私はその靴を掃除しとったんですけども、戦友は私の銃を掃除してくれたんですが、うまいこと掃除してくれなくて、それで、この時にその銃を上の人が点検いたしまして、「この銃はだれや」というんです。「はい」と手を挙げました。前に出てこい。ささげつつさせられました。こういうふうな言い方をしろと教えてくれるわけです。それはどういうことかといますと、「たとえ篠山の川が川下から流れましょうとも、太陽が西から出ましょうとも、今後こういうことは一切いたしませんのでどうぞ99式の短小銃殿、許してください。」銃にお願いをしろというわけです。で、その通りお願いをいたします。「銃は許すといわれたか。」「いや、何も申されません。」それはお前の言い方が悪いからだ。もう1回やれ。しまいにはもう辛いもんですから、「銃は許すとこう言われました」と言うたら「銃がモノを言うか、このバカ。」それでまた殴られます。とにかく丹波篠山の3ヶ月間は本当に辛かったです。

 で、3ヶ月の教育が終わりましてから転属命令が出ました。私たちは内地に残る人と中国の南京に行く人、それから満州の斉斉哈爾(チチハル)にいく人と3隊にわかれました。軍事機密でございますので、一切それを家族にも知らせてはいかんということです。家族が知ったのは私が満州に行ってからはがきを出して、ああ、息子が満州へ行ったのだなと家の方がわかった次第です。一切機密は漏らしたらいかんということで誰も知らせることはできませんでした。

 満州へ行きますと、今度は内地で殴られた、そういう私的制裁はないんです。何故かと言いますと鉄砲の弾は前からばかり来るとは限らん。後からも来るよ。あんまりきついことをしとると後ろから撃たれてしまう。日本兵が日本兵を殺すんです。

 日本内地の3ヶ月間の教育が非常に厳しかったもんですからまあ、満州での生活は非常に楽な生活をさせていただきました。我々は航空通信でございますので、毎日モールスの練習をするわけです。電鍵をたたきましてトンツートンツーと言うものです。なかなか記号が覚えられなくて大分苦労しました。それでも何とかやっているうちにできるようになる。で、飛行場に転属させられ飛行場と飛行場との間の連絡を無線でやるようになりました。満州での生活というのは非常にのんびりした、しかも食料はなんぼでもあります。日本ではもう食料が乏しいんですけど、ここは豊富で、それでゆっくりした生活をさせていただいていました。ご存知のように昭和20年に終戦になりました。無線ですので、戦いに負けたというのはすぐわかりまして、それから通信機材を撤収しまして、本体に合流します。本体は奉天におりまして、私は吉林と奉天の間の兆千胡屯という飛行場におったんです。全部機材を撤収して本隊と合流いたしました。それからソ連の捕虜になるわけです。全部持ってる武器を押収されまして武装解除され、それで我々はこれから日本に帰ることができるんだということ。そのつもりでおったんです。奉天から乗った汽車は北を向いているんです。おかしやないか。なんで北向いてるんや、帰るんやったら朝鮮に渡って、それから帰るんと違うか。朝鮮は今動乱が起ってるのでとにかくウラジオストックから帰るんや。だまされてそれでシベリアへ連れて行かれました。

 シベリアの生活は私は3年間ほどさせていただきました。一番初めに連れて行かれたのはシベリアの山奥の伐採という仕事でございます。2人が手を合わせたくらいの廻りとどく位の松を切ります。当時チエンソーはありません。ノコギリです。大体2人が1組になって押したり引いたり、先ず倒す方向に斧を入れます。で反対側から切っていきます。ノルマがあって、一日3本切ること。初めのうちは体力があったから3本切れましたが、食べ物を食べさせないものですから、だんだんに体が弱って参りました。私も63キロあったものが37キロまでになりました。こうなると骨と皮です。お尻の肉が全然ない。骨の上に皮がひっついている状態が続きました。そして170名ほどその収容所におったのが最後には30名になりました。全部亡くなりました。これは栄養失調とシラミ、寒さ、そういうもので亡くなっていきます。いよいよ私も、わしの番に回ってきたのかなと思っておりましたら実はある晩、トラックが山の上に上がってきました。今から名前を呼ぶ人はトラックに乗れとこういうもんですからどこへ連れて行って殺すんやとこういったら実はそのトラックはホスピタルへ行くということです。それで名前を呼ばれて私は助かったんです。名前を呼ばれなかったらこうして皆さんの前でお話する姿はなかったと思います。人間の運と言いますかね。なんや知らんけども、誰かが助けてくれてるなということを再三再四、シベリアの抑留生活で感じました。自分の力で生きとるように思いますけども本当は誰かによって生かされてるんかもしれません。そういうことでトラックに乗って夜の8時頃、迎えに来て3時間4時間ぐらいにて病院に行きました。その時に着ているもの全部を剥がされて初めて病院の白衣を着てベッドに横たわることができました。うれしかったです、その時は。残った人はかわいそうでしたけど。残った人はおそらく助からんと思いました。そこで37キロだった体重が3ヶ月もすると元の63キロに戻って参りました。私の隣のベットの人が奥井さんという上等兵の方でございました。隣のベットですのでよく秋田のお話をしました。「山形、内地へ帰りたいのー」と言うんです。はあ、私もそう思います。「いつになったら返してくれるのかなー。」「向こうのご都合でほんなもんわかりませんで」、と言う話をしていました。その内、その人はだんだん衰弱していきます。なぜかと言いますと病院に入ったんですけども、胃と腸が働かないんです。……………。食べたものが消化をしないのです。栄養失調がきつくなってきますとそういう容態になりまして、それでもその人は食べたら死ぬということを知っております。食べたいんです。私に「山形な、馬鈴薯が食べたいんや。」シベリアの馬鈴薯はこんな小さいもの。奥井さん、「馬鈴薯食べたら死ぬで」という。「死んでもええから食べさせて」という。私の一存で食べさせるわけにはいきませんのでその病室の人全部に相談いたしまして、食べたら死ぬということがわかっておりながら馬鈴薯が食べたいというがみんなどうするとこういうた。そしたらね、どうせ助からんなら今生の思い出に食べさせてやれとこういうことになりました。私は炊事場に行きまして、小さい馬鈴薯を6っほど持ってきました。奥井さん馬鈴薯持ってきたで、食べるかと言ったら涙出してね、喜んでありがとうって言うて食べました。しかし3っぐらい食べたところ、もうええわとこういった。ああ、そうか、これでええか、もうええわと喜んでくれました。翌日は亡くなっておりました。…………..。非常に悲惨なそういう状態が起こる。それは戦争という一つの人間同士の争いによって醸し出されてくるわけです。絶対に戦争というのをやったら私はいかんように思います。罪のない人たちがどんどん悲惨な目にあっていくというのは目の当たり、体験させていただきました。

 軍隊は不寝番というのがありまして、消灯ラッパが鳴って、それから、不寝番が立つわけです。一番立ち、二番立ちというふうに。一番立ちは2人で2時間です。だから10時に消灯になりますと12時までその2人が実は歩哨に立つわけです。私と戦友が一番だちで歩哨に立っている時、二番立ちの人を起こそうと思っていた私の連れが、おい起きろ二番立ちやでと言うたら寝とった人はよっぽど腹が立ったんでしょう、短剣を引き抜いて起こした人に頭の上から短剣をすっぱと振り下ろした。頭が裂けまして血がパーと噴きでました。さあ大変でございます。中隊中、全部ひっくり返りましたね。そこで週番士官から中隊長から全部出て参りまして、その始末をしたわけでございます。軍隊というところはそういうちょっとしたことでどうすることもできないような事が起こってくる。そんな体験をさせていただきました。

 シベリアで3年間生活しました。私は病院から収容所へ帰るときにこの中に技術者はおらんかということです。技術者というのは例えばボイラーマンとか左官屋さんとか。大工さんとかそういう技術者を探してます。私も手を上げて「山形兵長何や」というから左官屋ですと言いました。そして左官屋の組に入れてもらいました。「山形、若いのにお前いつから左官屋をやっておったんか」というから俺は左官屋をやったことない。こねて練るやつがあるやろ。砂とセメントあれ、わしにやらしてくれというてですね、左官屋の組に入っていきました。その時にいろんなことがありました。ある時、10時になりましたので、おおい休憩しょうというて12mぐらいのビルの外側を左官で塗っておりました。ワイヤーで我々吊り下げられまして箱の中に砂と水とセメント、そして3人が乗っているわけです。私はいつもこねて塗る人人にポッと渡す仕事をしていました。おい、10時やで、ボツボツ休憩しょうかということで、それに向こうの奥さんに窓を開けてもらって歩みを渡して我々吊り下げられておるんですからその吊り下げられているところから向こうの側の窓へ箱から移ったわけです。その途端に吊とったワイヤが切れてセメンから砂から水から積んでありました箱がドンと12m ぐらいの下に落ちてしまった。あれ乗っておったら即死でしたね。何や知らんけどね、生きてると違う、生かされてるということをシベリアで体験させていただきました。誰が助けてくれてるのかわからん。おわからんけども、誰かが私を助けてくれてる。それは亡くなったおばあちゃんか、おじいちゃんか、わからんけども、誰かが助けてくれたなということをシベリアの3年間で体験さしていただきました。それから本当は人間は皆、個人個人の自分の力で生きておられるように思いますけども。本当は誰かによって生かされてるかもしれません。おかげさんで私は3年間の体験で私は食べ物に対してそれから後、不足を言うことはございません。何を出されてもありがとうと言う気持ちで生活さしていただくようになりました。これはシベリアのおかげだと思います。よく夫婦喧嘩にして「こんなもんが喰えるか」というて喧嘩をなさる方もあるかもしれませんが何を出されてもありがとう
ございます。きつい時には、食べ物がない時にはタンポポを湯がいてなんぼ食べたやらわかりません。それは塩気も何もありませんけども、そういう生活をさしていただきますと本当にどう言いますか、自分が生かさしていただいているんだなということを実は感じました。そして、いろんなことを見さしていただきました。

 シベリアへ行くまでに奉天に集結します。その奉天の駅頭で地獄を見ました。これがこの世の地獄かなと思いました。というのは小さい小さい子供が親を探して泣き叫んでいます。親がおらないんです。そして、向こうではバババーンとソ聨兵が人を殺しています。地獄図というのはこのような状態なんだなということを感じさしていただきました。戦争は本当は絶対というほどしてはいけません。殺さなんだら殺されるんです。だから普通、人は殺せるもんと違います。あれは全部気が狂っとるんです。気が狂わなんだら人は殺せるもんと違う。軍隊はそれじゃ何の教育をするんかと言いますと軍隊というところは人殺しの教育をやってるわけです。私も初めて軍隊に入らしていただいて思ったんです。ああ、これは人間をキチガイにするところだなと思いました。そういう教育をして戦争に人を赴かせるわけです。どんなことがあっても戦争だけは避けていかなければいかん。これは弱い人が一番痛い目にあいます。これは女、子供です。女やお子さんが一番痛い目にあいます。どんな事があっても戦争はしてはいかんということを最後にお願いしまして終わらしていただきます。どうもありがとうございました。

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 ただいまご紹介に預かりました久御山町佐古の松村光明でございます。本日はこのような席にお招きいただきまして誠にありがとうございます。厚く御礼申し上げます。実は先日、林猛雄先生より話がございまして、昭和28年の水害のことにつきましてビデオ撮りがございました。そのときに新聞の何に出前講座活用例ということが載りました。それを見て多分私にここを出てこいといわはったと思うんです。そのビデオに出たんは私とあとは私の先輩、郷土史会の会長さんと文化財の会長さんが出やはったわけなんです。お前はその時に消防団やったから、それは経験しているから来てくれということでそのビデオ撮りに出していただいたわけなんです。それで多分今日、出てこいということになったと私はしているわけでございます。

 それで私は昭和28年の9月というのは消防団員です。いわゆる水防と消防は久御山町の佐山村、その当時佐山村です。まぜてますので水防団の委員でございました。そしてお前ら足が速いさかい、2人連絡係になれいうことで2人が連絡係をさしていただいたわけなんです。昭和28年9月25日は2日ほど、ものすごい雨が続きまして午前中にはバケツをひっくり返すような雨がありました。2時間ほどすごく降りました。そこで河川が増水いたしまして、皆さん逃げてくださいと避難命令が出たんです。それで、私たち2人が懸命に一軒一軒回って皆さんに逃げてください。避難してくださいと言って歩いたんです。ところがですね。当時は人間よりも牛が大事な時代でした。というのは今は耕耘機とか、自動車とか、皆ありますけども、その当時は電話も個人でない。報道の新聞とラジオしかなかった時代です。それで牛がものすごく重要なもんです。避難するのはまず牛やということでした。で、佐古、佐山、林、田井、下津屋あたりの人は大久保小学校のほうへ逃げました。避難さしていただきました。市田の人は小倉の小学校のほうへ非難されたんです。その時に、皆さん外でいわゆる牛をつないでいます。けれど、小倉小学校では外やなくして体育館、講堂の中に牛がつないでいました。牛はうんちをします。あとの掃除は子供たちがすごく大変やなと写真を見て気はしてます。そして牛を避難しました。けれど人間もなんぼか避難しましたけれどなかなか逃げてくれません。逃げてくれ、逃げてくれ、避難してくれちゅうてもなかなか避難してくれない。そなことにしている間に夜になりまして、ものすごいいお天気、月夜さんが出てました。何や、こらー、あんだけ雨が降ったのにて言う、の日で。

 もう一つはすごい北風でした、その時は。なんでこんなえらい北風があるんじゃろう思て、その時、もう一つ不思議なのは虫の声がございません。全く虫の声がしないんです。こんな不思議なことはないなと思てね、普通は9月ですので虫の声がどこかで出てるはずなんです。それにないんです。これは何かなかったらええがなー。まあ、嵐の前の静けさやったら、かなんなと思ってたら9時半頃にラジオ放送で宇治川の左岸が切れたという、こういう放送があったんですよ。で、びっくりして私は佐古におりまして、その当時は佐山小学校、佐山の農協、佐山の役場、駐在所とあって、電話もいつもいろんなところで連絡が密に出きたんです。そこへたんねてきたんが、いや、淀川の左岸向島のところで切れたとのこと、こっちやといわはったんですけどね、もう一つ私は信じられない。ゆうて歩かんなんので、自転車乗って行きました。今の市田の観世橋ということです。それは市田の今のヘリポートのあるところなんです、今、警察の。そっからパッと淀川のほうを見るとざーっという具合に波がバッと来てまして、ああ、こっちが切れたわいと思て、で、びっくりして自転車に乗って、こら皆に、こら逃げてもらな、いかんということで帰ってきたら途中で、市田のところで年寄りの方に会いました。おばあさんにおおたら「どこが切れた」ちゅあはるんですよ。いやまっすぐ北より向島よりやなって言うたら「そうか、な、2時間ほどせなここに水きゃひんな」そういうことを言わはるんですわ。やっぱり昔からそういう伝わってるんですね。あこ切れても2時間ほどせな市田まで水きゃあひん」ちゅあはる。後から聞いた話、そのおばあさん、それからごはんを焚いて握り飯を作って避難されたそうです。私も帰りにああ、2時間しか来やあひんにゃったら、うちまで来るのも1時間ぐらいかかるやろおもて、そんでこれはゆっくりとできるわいと思て、帰って、もう1人の人と2人で手押しのサイレンがあるんです。それを持って一軒一軒、ばーっと回ったんですよ。ほんで逃げてもらって。行くたんびに逃げることよりもどこが切れたというのばっかりです、いつでも。逃げてください、早いこと避難してくださいちゅうねんけど、いや、どこが切れました。結局ね、私らに伝わってるのは槙島ですね。槙の島で切れたら水は天井まで来る。で、それよりしもやったら床下か、床上になっても、しれてる言のうのが伝わってですよ、ずっと。て、みんなどこへ行ってもそれを聞かあるんですよ。せやからそういうふうに言われてるのでね、だからすーっとね、今、思い出したんですけども、東日本の大震災のときに二つの学校の明暗がありました。テレビで見ました。みちゃはったと思うんですけども、一つの学校は歴史を学んだ先生が今、大学の教授さんですね。その学校で教壇してた時に水はうちの学校つかる。だから「来たら逃げてくださいや」と言って子供たちに教えた、いうたある。日頃から練習もしちゃはった。だから上の小学校の子供たちを連れて高い山に逃げて助かったとゆうちゃはりましたな。


 もう一つのところはせやなくして、3階まで逃げたら大丈夫と言っていた。ここやったら大丈夫やと言うちゃっはたら、イヤ、それが水がそばに来たということで何人かが亡くなったと言うことをゆうちゃはりました。ふとね、そういうふうに、いわゆる、あったことは皆、次の世代にちゃんと引き継がなあかん。ましてうちなんかどこいったってその話をしやはるんですわ。天井まで、天井までと槙島と違う。こうゆわはるんです。

 で、久御山町になって、いもあらい(一口)とか、いわゆる宇治、中島、坊の池、野村という地域がありますけど、そこの人に聞いても皆同じことを言わはるんです。で、下津屋へ行くとあこはちょっと堤防の上で高いですね。そこは槙島切れたら床下、それ以外のところは道までしかきゃあひんで。その通りしかみな、きゃひんと皆、伝わってるんですよ。で、木津川の沿線はね、また違う立ち方をしちゃはるんですよ。今は井戸がないですわね。昔は井戸水で皆生活しちゃったんですね。へてから城陽の枇杷庄、水主、上津屋、ほんで久御山の佐山、下津屋、それから伏見区の淀生津町。そこら皆、井戸がありまして、平生はいつでもええ水が1mか2m、下に流れてあるわけですよ。で、それがたまたま水が増えてきたら自然に上へ上がってきて、ほんまに水が増えてきたら、その井戸から溢れ出るぐらい水が出るんですね。ところがその水があってもね、泥水でなかったらいいちゅうんです。で、外は、田んぼはね、あちこちで水が含んでます。ちゅうのが増えていく。そこで泥水が出たら切れる心配がある。きれいな水の時は心配しなくてもええ。向こうはそういう形のもんが伝わってるんです。

 話は元に戻します。私はとにかく帰ってきてからもう1人の人とみんな一軒一軒回って逃げていただきました。で、とにかく私らは大久保小学校へ逃げて行った。で、高い所の人はなんぼゆうても逃げません。これはもうしょうがない。ここまでしか来ないとおもちゃはるから、だから、そらもうしょうがない。しやけど、私はまだどこまで来るかわかりませんのでね、その話だけなんで、経験はしてませんので。で、とにかく、みんな逃げてもらいましてんけど。どこまで水、来るやろうと思って最後まで残ってたれと思って地域の中にじっとしてたんですよ。若宮八幡宮にいました。そな、ちょうど12時、ちょっと過ぎた時分に佐古に水が来ました。やはり市田のおばあさんが言ってたことがそのままですね。佐古には3時間後にうちの地域に水が来たんです。それから自転車ですね、その時分は。自転車で大久保まで行きました。途中で双栗神社のとこで、もう自転車が乗れなかったです。

 押して府道の宇治淀線へ上がりまして、ほで、大久保まで行きました。大久保いったら、皆さん避難されてましてね、そこでみんな男の人ばっかり寄りましてね、どうしょ。そこでも槇島と違うやろか。これは床上にならひんとこ、よけあるで。だから上までつかる人は少ないじゃから帰ろうな。ところが停電で真っ黒けです。帰れません。これはしゃないなということで、とにかく明るくなれば帰ろうというとで府道の古川橋まで行って、家に帰る準備をする、そんで川を見てたんですよ。そしたらちょうど3時半頃になったら水がじわーとしもからかみへ流れ出した。まあ、これは来よったなと思ってね、見てたんですけれど、まだぐるりが黒い。すぐには帰れません。で、あかるを待って、ちょうど5時半頃にみんなでだーっと帰ってきたんです。で、長靴履いてますので、まあまあ、そこそこいけたんですけども、今の佐山の郵便局、現在のね。あこまで行ったらもう長靴つかるんです。ほんで、皆さん頭の上に着ているものを乗せて佐山から佐古まで胸までつかりながらじゃぶじゃぶと歩いて帰ってきたんです。

 で、幸い、私、来た時はまだうちの家はまだ上まで水が上がってなかったのでね、親父と2人でタンスを上げて、畳を上げて、いろいろあげたんです。やっぱりなんちゅうか60キロある米をぴやっと担いで藁の2階に上がったんです。何か火事場の馬鹿力というか、それで今30キロも重たいのに60kgびやっとあげたんです。今だったらびっくりするほどの事をやったんですね。

 それやってる間にもぷらぷら水が来ました。けど家に水が入ってきたらどないなるかゆうたらボコボコボコボコボコボいいたおします。あいに乾いたるからね。ところが気色悪うていられまへん。見てる間にうぇーと増えてきます。けど、うちの家はたまたま床上2センチほどで畳が濡れる程度でして、最高でね。それから皆さんお寺がつかってないのでお寺へ避難さしてもろたる。で、そこへ皆、いたんです。もう炊き出しのこともありますし、いろいろと話にいたんです。そしたらぽっとね、隣のお宮はんを見たら長い竹がいっぱいありまんねん。そこでやっと自分が気がついて、これはうちの竹やがなということで、私お茶を作ってましたんでね、竹を家の裏に積んでたんです。ああ、これやと思て、寄せて、これでいかだを作ったんですよ。そのいかだに乗せてね、佐山のとっから佐古まで来る人をずっと運んでたんです。で、大久保までいたことがございます。2時間半ぐらいかかって。その時に滑稽なことを見たんです。

 それはどういうことか言うと木の端くれにいろんなもの乗ってます。まず豚が死んだ奴、流れてます。にわとりの死んだんが流れてます。今度は蛇とカエル、蛇とモグラ、蛇とねずみが同じ板に乗ってます。喰われるもんと喰うもんとおんなじ板に乗ってね、流れてた。こんなん考えられないですわ。それがパーっと流れてね。で、結局、26日の3時頃でしたかな、一番水が多かったんやと思うんですけども、うちの裏、元佐山の農協やったんで、そこでいっぺんどれぐらいあるやろと思ってパッとはかってみたら、3mぐらいの水でした。

 それが一番私がいたところで最高でした。そしてね、私らはぼちぼちと水が抜けてきましたんで、まず田んぼの稲を洗いました、泥。たーなか入ってね。で、私らはその結果はまあ50%いかんけど、まあそこぐらいのお米が取れました。ところが旧の巨椋池干拓地ですね。そこは10月の20日まで水がつかったまま、上がらなかった。だから一粒も米が取れなかった。今みたいに皆さんからいろんな人が来てもろて、援助してもらえるとそらまぁ結構ですけども、この時分はそんなもんおまへんしね、だから毎日野菜をとって食のアレにしてましたわ。にもかかわらずですねえ、野菜もつかってもうて取れませんし、お米は配給米を買わんなんちゅう状態で、すごく大変やったと思うんです。私はまだ採れたほうにおりましたんでね。じっと皆できましたけども、皆さん日雇いで300円から400円でした、一日ね。それに皆いちゃはったわけです。そこで一つも採れん、仕事に行ける人はまだ日雇いのお金もらえたけど行けなかった人はスゴー大変やったと思うんです。だからいわゆる豆かすを食べた。

 戦争間際みたいに牛や馬のえさを食べたゆうて、いまだにそんなことを言う人がいるわけなんです。だからまだせないかんか、寄付をとね、東日本や阪神淡路の時に言われた。そんなことを言われた人は何人かいやはったです。それはやっぱりその人はすごう困らはった人やなと私自身はそう思てます。それから大大変なやと思います。そのために我々はすごい損害をこうむりました。そこで昭和29年に今の久御山町になりましたが本当は佐山と御牧に淀と合併をするということになったったんです。90%はそれに出来上がってたんです。それにもかかわらず淀は一緒にならなかった。これはなぜでっしゃろ。淀は伏見へ行きました。この水害で佐山は3億9705万7千円の損害です。御牧村は12億円9784万6千円、こんだけの負債をこうむったら貧乏タレと一緒になれるかえということで一緒にならへんだと私はそう思うんです。けども貧乏人二つが寄りました。29年に合併しました。だから、今では合併の話は反対の人が多いのです。その時の町長さんはすごー大変やったと思います。けどね、財政再建団体になったんは昭和30年、昭和37年にそれを皆かやす(返す)ということになったんです。

 それでどんな事をやったか。人件費の削減は欠員は補充しない。給与の単価は地方公務員給与全国平均単価以下に持続する。昇給は計画期間中は認めません。事実上余裕ができたらその時に考えます。そういうことです。物件の抑制につきましては1割減としてそれ以後は随時節減を行う。新規に物品は原則として購入しない。新しいものは絶対買わない。鉛筆は5cm以下でなかったら新品と変えない。食糧費、交渉費、交際費、光熱費には極力抑制します。補助、交付金は大幅な節減を行う。寄付金、負担金は組合費、中学校負担金以外は大幅な節減を行います。各種団体の補助金も120万から32万に圧縮いたします。町の自動車は1台しかないけども車検切れで廃車いたします。助役さんも任期が来たらやめてもらいます。そこまでしちゃあったんですよ。

 その結果、37年3月に再建団体を抜ける予定が昭和35年に解除する至りになったんです。ところがですね、ここには載ってないですけどもどこにも載ってない。たまたま、今年の60周年記念写真展が久御山町で行われました。その時に私も写真を出したんです。けども見に行くの遅かって、行くのは最後の日にいたんです。そいたら、相島の田口嗣郎さんがこういう記事を表に出したんです。「水害の思い出986面の畳よ、ありがとう」というのが出たんです。で私はこれを探してたんですよ。誰がどこでこの畳代を払ってやろうと思って。で、わからなかったんです。消防へ聞いたら、まだ消防署ができてなかったんです。消防署はその後にできたんです。だからこれはあかん。ほんで役場が支出があるやろ。それは役場はないと言わはったんでね、探してたらたまたまこの相島の田口さんとちゅうのが消防団でこの時に現場で仕事してた人なんです。私もその時現場に仕事いたんですけども、私は後からいた部類なんです。第2分団の第1部分というのが御牧地区なんです。第1分団が佐山地区です。第2分団がその場所にいてたら、いわゆる今から言えば宇治川の淀大橋の下流900メートル付近で水が吹いてくるというのでみなさん土俵作りいたんです。ほしたら100メートルドサーと3分の1、ずつたんですよ。昭和34年の8月14日の出来事です。

 2日間、降り続いた豪雨により、宇治川の水位が上昇し、昭和28年の水害の二の舞になりかねない状況で、特に宇治川左岸淀大橋下流900メートル付近の外側の水の吹き出しが強く、消防団員の土のうやくい打ちで補強作業の最中に一挙に長さ100メートルに及ぶ堤防裏方3分の1の大崩落が起きた。全員が土砂とともに古川の中ほどまで押し流された。その時、どのようにしてはい上がったか記憶が定かでない。ただ、全員が無事であったことは確かである。何で裏方3分の1で収まったのか、それは畳である。偉いこっちゃ、早いこと皆来てくれちゅうことになりまして1分団全部そこへ集中したんです。もう一つ自衛隊も、保安隊でしたかな、それも来てくれてたと思うんです。そこで今度は畳をということになりましてね、畳ちゅうのはね、非常に大変で平生、仕事はやっているんですけども、実際にはなかなかやれません。畳を編んで川の中へ沈めるんです。ほいで杭打って止めるんです。この畳を北川顔と藤和田の家に“畳”ちゅうたらサーっとあげて、黙って皆作っていたんです、土足で。それにその人は今日まで何も言いません。あの時大変やったとは、ほんまに大変やったと思います。最後は畳は返してくれはったんか知らんけども。けど、このために助かったんですよ。その時ね、何ちゅうはったか、その時、私らは土俵積をまだその時やってやってたらね、土俵積んでて、綺麗な水がブルっと流れてるんです。その間はいいんですよ。どうぞ流してる間はええなぁちゅうてやってましたんや。ところがですね、それが泥水になったらいいなさいとちゅんですよ。なんですか。泥水になったら逃げなさい。逃げっ時はしもへ逃げ言うんですよ。逃げられますか、堤防切れる前に下へ逃げますか。所が下へ逃げちゅうんです。堤防はかみへ切れるんですって。それ初めて聞きました。そんなところで仕事してたんですよ。最初なんかは2mある杭が手でギャーと下まで入りますさかいな。もうあかんわ。もうあれが切れたったら今の久御山町はおそらくありません。

 あの場所から見て今は八幡の下水処理場のとこです。その頭です。その前が伏見区の淀町です。もう次、木津川堤防です。で、こちら600mかみが久御山町です。その場所でしたです。だから私はいつもかねがね思うんです。どうも水害が起こりやすい、そういうことなるのんは取り合い(行政の重なったところ)と違うかなと思うんですよ。ここもどこのところやわからんもんが、今の畳を買ったというのは最後までわかりません。多分京都市がやってくれたん違うかなと思うんです。だからそういうところらへんで切れる。28年の水害も向島の大黒町ですね。被害の一番こうむってるのは久御山町、宇治市なんですよ。それに切れたんは向島ですわ。京都市でっしゃろ。どうもその辺の連れ合いで何かがいつも起こるような気がしてなりません。まあ、これは行政でやっぱりしっかりと横の繋がり、その取り合いをしてもらわないかんのと違うかなとこう思うんです。


 で、そういうことからしてねえ、今もまだ久御山町の中には残っていることはあるんです。それはどういうことかと言うたら、あれは決壊は切られたんだ、切りよった、あれは。いまだに残ってるんです。大きさで見たらやはり誰がみてもそういう感じるところがあります。淀川の資料館の人が後日来て言うちゃはった。もうその時に切れたときのちょっと前には3つの河川がもうオーバーしてもう切れる、アウトやと思ってた。土俵積んでもあかんというてた。それに急に水が減った。こういうゆうちゃはるんですよ。それと同じようにいまだにどこ行ったってあれは切られたんだ。そらー京都市切れたら、そら大変ですわ。大阪切れてもこれ大変です。けどね、あこは、今はようけ家が建ってまっせ。あの28年はまだ巨椋池の中で家は建ってませんわ。そしたら一番被害が少ないのが巨椋池の干拓田であると思われても仕方がないわなと思われてたと思うんですよ。そうしか思いようがないんです。そういうふうにいまだにどこいったってその話出るんですよ。あれ、切りよったんや、何もあんなん天災ちやう。私はそれはそう思いたくないんです。


 ただね、今は思いたくないのはどういうことかといいましたら実はね、水との戦い、こういう本があるんです。これは小学校4年生の副読本ですけども、この中に水との戦いということで当時28歳の東一口の人が子供たちにきっちりとその時の状態を教えてるんです。
忘れようとしても忘れることのできない昭和28年9月25日、台風の接近とともに前日から降り続く雨は激しい北風に伴ってますます勢いを増して嘘のような話ではあるが、傘が重たくてさして歩けないような大雨となった。多くの村人とともに淀川堤防の警備にあたっていた私は生まれて初めて淀川が逆さまに流れるのを見た。八幡町で宇治川、桂川、木津川の三つの川が合流しているが、桂川、木津川の水が上流に向かってきたのである。水かさは目に見えて増し、午後8時過ぎには堤防の上から手が洗えるほどになっていた。このまま降り続くと午前3時頃には最高水位になると思われた。そうなれば、たとえ堤防が切れなくても両岸より水があふれて大変なことになるだろうと予感がしたのでどの農家も飼っていた牛を見殺しにしてはかわいそうなので避難さしに帰った。ついでに米と畳を二階に上げて、表通りに飛び出してみると、ちょうどサーチライトのような白い光が1条長く巨椋池に向かって伸びている。これは一体何だろう。水か光か、どっちかだなどと口々に言い合う。その時、確かめに自転車を走らせた人が大声で怒鳴った。「水だ、切れた。」一条の光は見る間に輪を広げて10分とたたない内にゴーゴーと水の音が聞こえてきた。いまだ忘れることのできないちょうど9時過ぎてあった。また、耕地化の復旧担当だった東一口の人は自宅が危ないと宇治川堤防沿いに自転車を引きながら急いだ。途中、観月橋付近は宇治橋に比べて水位も余裕があったが、さらに下ると堤防はぶよぶよとして自転車をひくにも大変な状況となっており、何とか家に戻ってほっとしていたら数十分後に「来たぞ」という誰の声とともに停電、真っ暗な自宅の庭で遠方から押し寄せる真っ白な波を見た。自分が先程通った道だと気づいたとき全身に恐怖が走った。このように私は天災だと思うし、詳しいことを後世に語り継がればなりません。誠にまとまりのない話でしたが、この辺で終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

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