国立近代美術館

没後50年 鏑木清方展

109件の日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展です。

鏑木清方は江戸の面影を色濃く残した東京に生まれました。

生粋の明治東京人たる清方は、その生涯にわたり、江戸や東京にまつわる作品を多く残しました。

音声ガイド 尾上松也

 

 

鏑木清方の3部作

この代表的な作品が、長らく行方が分からなくなっていて、平成30(2018)年漸くすがたを現わした《築地明石町》です。

本作品は、清方の代表作というだけでなく、近代日本画壇の美人画の最高峰に位置付けられてもいます

同時に奇跡的に現われた《浜町河岸》《新富町》とあわせて東京国立近代美術館の所蔵となったことから、同一法人内の美術館である当館でも三部作の全会期展示が実現

3作品で購入額は計5億4000万円

築地明石町

この作品どれくらいの大きさがあると思いますか?

とても大きくて等身大なのかと思います。

173.5×74.0cm

没後しばらくして所在不明となった作品。

鶴見主任研究員によると、出品が確認できたのは1975年に開かれたサントリー美術館(東京)の展覧会「回想の清方 その三」が最後だという。

 

『三遊亭円朝像』

(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像ですが、幼き日に父を通じて出会い、画家になるのを勧め、栃木方面に取材に連れ出したこともある恩人を敬愛を込めて描き上げた代表作の一つに数えられています。

 

子供の頃によく自宅に来た円朝を思い出し、大人になってから書いたらしい。

 

『一葉女史の墓』

十代の頃の清方は、樋口一葉の著作を愛読し、いつか挿絵を描きたいと切望していました。

しかし、明治29年(1896)に一葉が24歳の若さで他界したため、その願いがかなうことはありませんでした。

樋口一葉の墓に、一葉の代表作「たけくらべ」の主人公美登利が詣でて、その墓に寄り掛かっているという有名な幻想的な作品。

「一葉」

実際には会った事はないので、一葉を描くにあたっては、一葉の妹邦子の顔を参考にしたほか、全集所載の写真を参考にしたという。

妹邦子は一葉に似ていたとのことだ。一葉の一周忌に清方が招かれて以来、折々会っていたらしい。

 

ポーズを決めるにあたっては、一葉の随筆「雨の夜」をイメージしたという。
「庭の芭蕉のいと高やかに伸びて・・・小切れ入れたる畳紙取り出し、何とはなしに針をもたられぬ」とあるが、その文章を彷彿させるような、一葉の描き方である。
 
幸田露伴
「故樋口一葉女史は一見したところ、まず薄皮立ちの締まった、聡明そうな顔をした人であった。
敢えて醜いというほどではないが、さりとて非常な美人ではなかった、むしろ妹の方が顔立ちは好かったように思う。」

「鰯」
清方の育った時代、築地には水揚げされた鰯を売り歩く少年が大勢いたそうです。

長屋の一角で炊事しているおかみさんが少年から鰯を買い上げているところ。

 

鏑木清方は江戸・東京の風俗画だけではなく、戯作者であり、毎日新聞の前身にあたる東京日日新聞の創刊に関わった父・條野採菊の影響により幼い頃より親しんだ文学、芝居、歌舞伎、落語に取材した作品でも知られる。

美人画だけではない清方の全貌を、ご堪能ください

清方ってお父さんも才能が有って社長さん。

結構お坊ちゃまだったのかしら?

清方は1878年(明治11年)、東京・神田佐久間町に生まれた。本名は健一。

元は條野(条野)姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった。

父は条野採菊といい、ジャーナリストでありながら山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。

13歳となる1891年(明治24年)7月、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した。

翌年には家庭の事情により神田の東京英語学校をやめ、画業に専心している。

1893年(明治26年)に師の年方から「清方」の雅号を贈られた。

 

条野採菊

1872年(明治5)には『東京日日新聞』を、さらにその後1886年『やまと新聞』を設立、社長となった。

この間、小説家としても実録風の『近世紀聞』(1874)をはじめ『とりかへばや』(1889)などの作がある。

三遊亭円朝の速記を『やまと新聞』に載せ、河竹黙阿弥(もくあみ)に脚本の題材を与えもした。

 

鏑木清方『築地川』より「獺化ける」

明治時代の築地川周辺には夜暗い場所が多くありました。ここに描かれているのは雨の中、船頭に化けて船見橋をくぐるカワウソ。

この橋は幽霊橋とも呼ばれ、当時はカワウソが化けて出るといわれていました。 

浅草・本所・築地・深川には日本カワウソが沢山いたんですよね。

 

鏑木清方と云うと口絵などが多い画家とも思われますが、今回行って大作が多いのにビックリしました

 

西の上村松園、東の鏑木清方と云いますが、松園は美人画だけですが、鏑木清方は美人画は勿論、風景画、役者絵、人物画、雑誌の口絵や表紙も書いてきました。

江戸っ子らしい粋な感じの方ですね。

戦争中も空襲警報が鳴ると、意地になって美人画を書いたそうです。

是非に皆様も一生の内に、この鏑木清方の作品を見て頂きたいと思います。

紀伊國坂
この坂を 紀伊国坂 といいます。
『紫の一本』という本には“紀伊国坂,松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。
今の 灰小路の所,もと尾張紀伊候の御屋敷ありし故なり”とあり,『再校江戸砂子』には“紀伊国坂,竹橋御門へくだる小坂をいう。
むかし此所に尾紀の両御殿ありしなり。今,赤坂に同名あり”とかかれています。

レストラン ラー・エ・ミクニ

東京国立近代美術館内にある「レストラン ラー・エ・ミクニ」。

三國清三がプロデュースする「フレンチとイタリアンの融合」をコンセプトとした料理

 

今度はゆっくり此方で🍾🍷🍽食事も良いですね。