江戸時代の居酒屋

道路に面した店の板壁には

大極上々吉上酒  壱升に付八百もん」

隅田川しろ酒  壱合八十文」とあり

店内の壁には「かもうりくづかけ  三十五文」

とうなすにつけ  三十六文」

ナゴヤふくなべ  六十四文」

大木寸  六分」

めし一ぜん  三十文」

鍋るいいろいろ」と書いて張ってあります。

 

①品書きの料理

かもうりは冬瓜

くづかけは葛あんをかけた煮物

とうなすは南瓜

ナゴヤふくなべは、ナゴヤフグの鍋物で、ナゴヤフグとはヒガンフグの別名です。

名古屋付近でとれるフグの名ではなくこの世の終り(尾張)で名古屋としゃれた。中毒死する人が多かったためのようです。

いかにも江戸っ子らしいセンスです。

大木寸は大鱚(きす)

 

このように酒と料理を出す店は居酒屋と呼びますが、もとは店先で酒を飲ませる酒屋で、味見のために飲ませたものが一杯売りとなり、のちに簡単な料理を提供するようになったものといいます。

絵の左から3人目の男性は「皆さんぶたで一口やろう」といっており、これに対して魚屋の後ろにいる店の女性が、その京やのだんなに上に上がるようにすすめ、給仕の娘にぶたの料理を言いつけたらしく、娘は「おばさんわたしはぶたをしりません」と答えています。

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「江戸の獣肉屋(江戸のぼたん鍋屋)」

②獣肉屋

肉食忌避の江戸時代でも獣肉屋はあり、鹿・猪・兎・牛などは食用にされていましたが、豚の食用は西日本以外は稀でした。

『本朝食鑑』(1697)には、豚は溝や台所のごみを食べるので飼いやすく、猟犬の餌にするとあり、豚肉の食用は血行を悪くし、筋骨を弱くし、とくに病人にはよくないとしています。

居酒屋に豚を登場させることで、時代の変化を表現しているのでしょうか

 

江戸時代の居酒屋の肴で一般的なのは、味噌田楽だったらしい。

その他は

田楽、湯豆腐、ゆでダコ、芋の煮物、どじょう汁、ふぐ汁、まぐろ料理、おでん

③「おでん」コンニャクの田楽

おでん”は、語源からいえば田楽の女房詞(にょうぼうことば)です。

江戸中期の国語辞典『俚言集覧(りげんしゅうらん)』には「こんにゃくの田楽を、おしなべておでんと呼ぶ」とあります。

これはこんにゃくを串にさしてゆで、みそを付けたもので、昭和初期でもおでんといえばこれだったように思います。

大根・こんにゃく・さつまあげなどを煮込んだ現在のおでんの出現がいつなのかは定説がありません。

江戸後期からあったとする説では、『浮世風呂』(1811)の中の「大福餅から、ゆで玉子。お芋のおでん」とある行商人の売り声を根拠としていますが、恐らく明治以降だと思われます。

④「ねぎま鍋」

鮪のトロの部分は、江戸時代では保存がきかないということですべて捨てられていました。

なので貧乏な庶民は脂っこいトロを鍋にして葱を入れました。

それが「ねぎま鍋」

今なら高級な中トロ、大トロの鍋ですね。

 

⑤江戸時代のあんこう

「三鳥二魚」

あんこうは江戸時代から珍味として重宝されてきました。

水戸徳川家から将軍家への献上品としてアンコウが用いられていたことを示す資料が数多く見つかっているそうです。

「西のふぐ、東のアンコウ」と並び称される高級魚で、とくに茨城県沖で獲れるアンコウは上物として賞されています。

5大珍味「三鳥二魚」とは、鶴(ツル)、雲雀(ヒバリ)、鷭(バン)、鯛(タイ)鮟鱇(アンコウ)のこと言われる中にあんこうはお墨付き食材なのです。

江戸時代には鶴の肉は香りがよく高級食材として珍重されていて、主に武家の祝いの席で食べられていたとの記録があるそうです。
雲雀、鷭は、焼き鳥や照焼きとして食べていたとのこと。

雲雀


鷭(バン)は日本中に生息している鳥です。 主に湖沼、川、水田、湿地などに生息していて、「クルルッ」と大きな声で鳴くので、それに驚いて他の動物が水田に近寄ってこれません。

なので、「田の番をする鳥」としてバンの名が付けられたそうです。
現在では、鷭は狩猟鳥獣の鳥類28種の中に含まれており、狩猟免許を取得した者は獲ることができますが、鶴、雲雀の捕獲は禁止されています。

 

⑥江戸時代の居酒屋の嘘

江戸時代の居酒屋ではイスに腰かけテーブルに酒肴をのせて飲食する、という風景はありませんでした。なので酒や肴をのせた盆を直接、座敷や床几にのせて飲食しました。

よく時代劇で出てくるテーブルがある居酒屋はウソです。

❌時代劇

○時代劇
居酒屋には現在の時代劇にみられるような、四本脚のテーブルや椅子はなく、客は床几(長椅子)に腰かけるか、座敷に上がって酒を飲んだ。
酒や肴は、お膳、お敷きという低いお盆のようなものに器をのせて、床几(しょうぎ)や座敷の上に直において座って飲食をした。
酒は燗徳利(かんとっくり)でなく、「チロリ」という容器にお酒を入れ、これを銅壺で湯煎して温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を猪口(ちょこ・チョク)に注いで飲んでいた。

『守貞漫稿』(天保八年,1837)によると、それまで燗酒を呑むには銚子やチロリを使ったが、幕末の天保年間(1830-43)の中ごろに、燗徳利が登場し江戸で使われるようになったという。
銅鉄器ではないため、酒の味が変化せずに美味しく、他の酒器へも移し替えず冷めにくいなどの利点がうけ、しだいに諸国にも広まっていったという。
絵の中の人物で役者名がわかるのは、右端の黒羽織の人が三代目澤村宗十郎、その左が澤村東蔵、その手前の足付きのグラスを持っているのが初代市川男女蔵です。
中央部分の上下(かみしも)姿が三代目坂東三津五郎、左手4人のうち浴衣(ゆかた)で立っているのが五代目松本幸四郎です。
盆の左手にある注ぎ口と蓋のある円筒形の器は、酒をあたためるのに使う銅や錫製の酒器でチロリというものです。
磁器製の燗徳利がつかわれるようになったのは、文政年間(1818~30)からといいます。
また盆の上には盃はなく、ぐい飲みが二つ置かれています。