「ポピュリズム(大衆迎合主義)発生の原因とその克服について」―6 | ueno63jのブログ

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大衆性克服の第二の方案は、第一の方案より抜本的で広範囲な方案である。それは(第一の方案で示したように)知識人を中心とした全世界的確認の下に、各国における教育システムそのものを変革するという作業である。

現在、世界に影響力を持つどの国の教育を概観しても、その内容が著しく知識教育あるいは技術教育(スポーツエリートの養成などもここに含む)のみに偏っていて、本来人間にとって最も根本的かつ重要な価値教育、そしてそれに付随する倫理教育や心情教育(慈悲の心や寛容さの大切さ)がほとんど満足の行く形で行われていない。

よく目にする「世界大学ランキング」などもその好例だ。何でも数値化しランクをつけたがるというのは合理主義の国アメリカが世界に発信した最もゆゆしき悪弊の一つだが、このランキングの評価基準もBEST TIMESによると「指導(teaching)」「研究(research)」「引用(citations:学術論文に引用された回数がどれくらい多いか)」「国際的観点(international outlook)」「産業界からの(資金)収入(industry income)」という五つの基準から成っている。つまりここで問われている「基準」は、自然科学系の研究作業を主な対象とし、大きく見積もってもせいぜい社会科学系諸分野までで、人文科学系諸分野はほぼ全く範疇に入らない。人文科学は客観的数値化では表せない精神の領域をその基幹に据えているので、もしも数値化してランキングをつけてもそのランキング自体がほぼ無意味である。さらに人文科学諸分野の表現方法は基本的に「個人差」「民族差」があり過ぎることも挙げられる。たとえば一般的にハーバード大学は優秀だと言われる。しかしそのハーバードを含むアメリカ系アングロサクソンを基盤とするアメリカの発想は基本的にプラクティカル(実際的)で、このような発想はビジネスや自然科学の実験には向いているかも知れないが、哲学や音楽、美術(ポップカルチャーではなく、もっと高い美的構成力が求められるクラシック音楽だとか絵画、彫刻など)はヨーロッパの比ではない。さらにはそのヨーロッパにおいても民族性によってその得意分野は見事に分けられている。例を挙げると、音楽と哲学のドイツ、文学のイギリス、フランス、ドイツ、美術のオランダ、イタリア、フランス、スペインなど。

問題は、アメリカ的発想で全てを「一定の」視点からのみランキングして優劣を決めるという画一化の発想[1]が世界を覆いつくし、あらゆる国(本来そんな発想をして来なかったはずの国までも)がそれに踊らされているという現代の風潮にある。一つの、しかもそれが客観的に数値化出来るデータのみに踊らされて、「多様性」という人間にとって重要な価値を見失いつつある現代において非寛容な政治的社会的問題が多発するのは当然である。

今こそ社会のあらゆる構成要素(家庭、学校、会社等々)内での教育段階において画一化の発想をやめ、多様性を認めてそれを評価するという「価値観の転換」が図られるべき時だ。それも制度としての多様性認可ではなく、本心から多様性を価値視出来る心の養成が求められる。もちろんここで言う「多様」が悪いことや望ましくないことまでも含む、いわゆる「無節操」まで意味するようないい加減なことを指しているわけではないことは言うまでも無かろう。ただ、何が「悪い」ことで何が「望ましくない」ことに該当するのかについてはかなり個人差がある。

こうしたあいまいな価値基準に対する解決法としてまさに「価値教育」が必要なのである。どうすれば他人に、他民族や他団体に、他国に寛容になれるのか?どうすれば「他」同士が共存出来るようになるのか?これを解決する方法は一つしかないように思われる。即ち「他」の立場に自分を置き換え、関心を持ち、理解しようと努め、そして「他」の立場から発想するというプロセスを習慣づけるということである。「自分がして欲しくないことは他人にもするな」という言葉がある。これをあらゆるコミュニケーションの局面(小は一対一の個人的関係から大は国家同士の国際的関係に至るまで)で実践出来るように日頃から対他的発想を習慣づけること、そのための教育こそがこれから全世界で真剣に検討、模索されて行かなければならない。そのためには先ずそのような教育を施すことの出来る教師(家庭においては「親」、学校においては「教師」や「講師」「教授」、会社においては「上司」ということになろうか)の教育が必要である。この親や教師の教育指針をこそ世界中の知識人は自分たちの共通使命として共有し、自らの著作や国連などの国際機関での発言を通じて全世界に発信することが求められる。

ポピュリズム(大衆迎合主義)の克服はもちろん、「大衆」そのものの解体も、そこからしか生まれないと私は信じている。

 

[1] ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930)によれば、アメリカには「to be different is to be indecent(違っていることははしたないことだ)」という慣用句があるそうである。(José Ortega y Gasset  “The Revolt of The Masses”, W.W.Norton & Company, 1993,  p.18