「ポピュリズム(大衆迎合主義)発生の原因とその克服について」―序(3) | ueno63jのブログ

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  ロタールの死後この王国は息子のロタール2世に引き継がれるが、このロタール2世の死後、王国は東フランク(ドイツ)と西フランク(フランス)によって分割され、ヨーロッパ大陸は事実上ドイツを中心とする中央ヨーロッパ(ゲルマン圏)とフランスを中心とする西ヨーロッパ(ラテン圏、厳密に言えばイタリアを別とする)という二大文化圏に分かれてしまうのである(870年メルセン条約)。

 中世後期になってこの地域にもう一つの「国」が現れた。それがブルゴーニュ公国である。彼らの出自である東南フランスのブルゴーニュ地方にとどまらず、特に公国の最盛期を築いたフィリップ善良公(ル・ボン;13961467)の時代、公国領は現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを含む「ネーデルラント」一帯にまで及び、彼は公国の首都をブルゴーニュ地方のディジョンから現ベルギーの首都ブリュッセルに定めていた。その後このブルゴーニュ公国直系の後継者が女子であったため、彼女の夫の出自であるオーストリアのハプスブルク家がその後を継いだ。さらに時代が下ってハプスブルク家(スペイン領)出身のフェリペ2世の統治下で、有名なオランダ独立戦争が起こったのは良く知られている。

 お解りだろうか。このドイツとフランスの中間に南北に長く横たわる地域こそ「ヨーロッパの鍵」となる地域なのだ。この地域の人々(特に知識層や指導者層)がどう動くかによってヨーロッパ(少なくとも大陸ヨーロッパ)の形成は大きく変わるのである。

 ヨーロッパの少なくとも知識層に属する人々はこのことを知っている。だから二十世紀に入って第一次、第二次両大戦の合間に相当する期間(interbellum)から既に「ヨーロッパ統合」という問題は一部の知識人たちの間で自覚されていた。第二次世界大戦でヨーロッパが国土的にも文化的にも政治的にも瓦解してしまった後すぐに「新生ヨーロッパ」を模索する動きは始まっていた。この動きの中心にあって、今日「EUの生みの親」「ヨーロッパ統合の父」のように評価されている人物がいる。ロベール・シューマン(有名な作曲家ロベルト・シューマンと名前の綴りはほぼ同じである)という。先述したフランス東部のロレーヌ地方出身の父親とルクセンブルク人の母親との間に生まれた(つまり両親とも「中間地帯」の出身である)ルクセンブルク人で、母語はルクセンブルク語とドイツ語、しかしその後故郷アルザス・ロレーヌ地方がドイツ領からフランス領に統合されたことによりフランス国籍を取得し、フランスの首相、外務大臣として活躍した人物である(彼のフランス語は最後までドイツ訛りが抜けなかったと言われている)。中間地帯で生まれ、ドイツとフランスのアイデンティティを併せ持ったこの人物に触発されて「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」が発足し、さらにそれが「ヨーロッパ共同体(EC)」へと拡大され、この動きがついに今日の「ヨーロッパ連合(EU)」へとつながるのである。EU発足を主導したのはシューマンのいたフランスとオランダ、ベルギー、そしてイタリアである。つまりかつてのロタール王国領土を形成していた領域に属する国々ということだ。EUの本部はベルギーのブリュッセル、EU発足の条約であるマーストリヒト条約が締結された町マーストリヒトはオランダの最南端にあってベルギー、ドイツと国境を接した地点にある。ここは「ヨーロッパ統合」の創始とも言えるフランク王国のカール大帝の宮殿のあった町アーヘン(現ドイツ領)にもほど近い。

ちなみにこのマーストリヒトのすぐ北東にメールセンがある。ここは870年に中フランク(ロタール王国)つまり「中間地帯」がドイツとフランスによって分割され、事実上姿を消すことになった条約が交わされた場所である。「中間地帯」を消し去って、ヨーロッパを二分化した町のすぐ隣でヨーロッパ統合の条約が調印されたことについてヨーロッパ史研究家の堀越孝一氏はヨーロッパの知識人たちは意図的にこれを行ったのではないかと推測している(堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』、講談社学術文庫(2006)の「あとがき」)。

以上のような歴史的経緯から今回のオランダ下院選を見た時、この小国の動静が単に小さな一国の動静では終わらないことは明らかだろう。さらにそれは同じヨーロッパの国同士の間の「雰囲気の伝染」といった抽象的なことではない。地図を見ていただきたい。小さな国ばかりがひしめくヨーロッパの中で、しかも歴史的に重要な役割を示して来た「中間地帯」の国で、今後のヨーロッパの動静をうかがう方向性が示されたというのは、我々が思っている以上に大きなことなのである。さらにこの「中間地帯」オランダの選挙に続くのがフランスとドイツの選挙なのだ。今年が「ヨーロッパを決める年」だと言っても過言でないことがご理解いただけたと思う。