「子供の教育と大人の教育」-1 | ueno63jのブログ

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 前回お話ししたように、これから「子供の教育と大人の教育」という題で、現在の日本に見られる問題点を明らかにして行きましょう。

 先ずは、前回示した5つの項目のうち1.に該当する問題、「学習意欲の弱まり」についてです。


 よく人間は学習する動物であると言われます。これは言い換えれば、人間とその他の動物とを分ける最も顕著な違いの一つが、「学習」する能力を持ち、さらには学習意欲を持っているかどうかにあるということを示しています。確かに動物の中にも我々人間が見ても「学習」しているように見えるものがいます。しかしその学習能力を積極的に追及し、さらには学習したいという意欲まで発揮出来る存在、となればこれは人間以外には当てはまりません。したがって学習能力や学習意欲は、人間の最も根本的な価値であると言えるのです。

 では「学習」とは何でしょうか? 一般的にはほとんど「学習」は「勉強」と同じ意味で使われています。でもそもそもこの使い方自体が学習の本当の意味が解っていない証拠ではないか、と思われるのです。

 学習は勉強ではありません。勉強をしていても学習していない人は大勢います。逆もまたしかりです。勉強という言葉は知識の取得にウェイトが置かれた言葉で、言ってみれば「知的能力」の養成といった意味です。それに対して学習は、もっと全人格的な意味合いでの能力の取得にウェイトが置かれた、より広範囲な能力の養成を意味します。端的に(わかりやすいかどうかは解りませんが)言うと、勉強が「知識」獲得を目指すものであれば、学習は知識をも含んだ「経験知」獲得を目指すもの、と言って良いかと思います。個人的で恐縮ですが、僕の趣味であるボートを例にとって言うと、ボート各部の名称を覚えたり、ボートの効果的なこぎ方はとか、風が吹いた時、他のボートと接触しそうになった時、視界の無い場所を曲がる時どうすればよいか、といったことを主にテキストや雑誌などで学ぶのが勉強とすれば、実際に海なり湖に出て、ボートの効果的なこぎ方を身を持って体験し(いわゆる「身におぼえさせる」ということです)風が吹いた時に身を持ってその危険に対処しながらボートが転覆しないように操船する技術を学ぶ、いわゆる経験知が学習です。

 現在の日本の、特に一般的な若年層に学習意欲が弱まっているように見えるというのは、どういうことかお分かりでしょうか? 勉強は出来るけれど学習意欲が無い若者の増加、というのは、つまり頭で抽象的に物事を考えてばかりいて、その「勉強した」内容を実際に実践を通して自分の人格形成に反映させようとする意欲が感じられない、ということなのです。このような傾向は、もちろん昔もありました。特に明治以降のいわゆる「知識人」と言われた人々、作家や学者、宗教指導者などです。僕は文学と歴史が専門なので申しますが、近代以降の日本の歴史において、知識人の現実逃避や個人的生活への沈潜が、後の時代に軍部が独走する「スキ」をどれほど与えてしまったかを考えると、情けないと同時にいたたまれなくなるのです。知識人こそが、社会に大きな発言権と影響力を持ち得る存在だったのに。個人的なことでくよくよして自殺したり、自分たちの世界に入り込んで実際の社会からかけ離れた「ユートピア」に逃げ込んだりした知識人たち(あえて個人名は出しませんが)が、明治期の燃えるような情熱が挫折してしまった日露戦争以降(この時期に対しては異論もあるでしょうが、いつかこの問題に対しては別途に考えて行きたいと思っています)どれほどたくさん出て来たか、もしも関心がおありなら、近代日本史や近代日本文学史をひもといて見てみてください。

 現在の状況はこの時の状況とは違いますが、結果として同じ結末を作り出す危険性をはらんでいます。つまり「バーチャル世界」への引きこもり(逃避)や批判ばかり繰り返すくせに実行力の無い「ニセ」インテリ層の膨張という状況です。知識層がこのような状況に陥ると、政治の暴走や社会のモラルの低下に歯止めをかけ得る人がいなくなるというわけです。

 それではなぜ現在の、特に若者層に学習意欲が低下しているのでしょうか? 一言で言えば社会が便利になり過ぎてしまったからです。「サービス精神旺盛な社会」は、自分から何もアプローチをかけなくても、社会が全てアレンジし、提供してくれるようになっています。そのような社会に生まれ育った人々は、自分で何かを求め、何かをしなければ何も手に入らなかった昔の人々と比べて明らかに「自分は何をしたいのか」という疑問に対する積極性が違うのです。恵まれた社会で、敢えて「無い」ことに甘んじ、ストイックに自分を追いこんで行く生活を繰り返す、というのは並大抵の努力では出来ません。