幻の飛行場の滑走路
今は道路として使用されている。昭和20年に日本が
連合国のポツダム宣言を
受け入れ、不戦の誓いの下、
平和国家の道を歩んでいる。
かつて、越谷から岩槻に
かけて陸軍の飛行場があった
事実が忘れられようとしている。当時の滑走路や誘導路が
道路として利用されている
越谷の荻島村から岩槻の
新和(にいわ)村にまたがる
飛行場であつたので、地元では通称「荻島飛行場」。
「新和飛行場」などと呼ばれた。大部分が新和村の論田地区にあったので「論田飛行場」とも呼ばれた。終戦の前年、昭和19年7月に地元の
農家13件が陸軍から呼びだされて強制的に立ち退かされて
飛行場の建設が始まった。
当初は飛行場設定隊の
700名によって開始された。
その後、近郊の住民の勤労奉仕や動員された朝鮮の人によって炎天の日も雨天の日も
人海戦術で突貫工事が行われ終戦の年の8月上旬に完成した。しかし止まりきれず
滑走路北端あたりに不時着した一機(操縦士は岩槻藩主の
大岡忠意氏)意外は利用されず、玉音放送があった15日の
終戦日を迎えたのである。正式名は「越谷陸軍飛行場」と いう。滑走路の名残が現在も
道路として利用されている。
「しらこばと水上公園」から
南に一直線に伸びている道路である。この滑走路の幅は
現在の道路より広く、60mで
長さは1500mである。
滑走路の北端は、
「しらこばと水上公園」の
北隣、越谷西高校の校庭南端
あたり、滑走路の南端は、
越谷市小曽川の北隣、
さいたま市岩槻区末田17.1
あたりである。
さいたま市岩槻区末田の
田島喜一氏(明治45年5月1日生まれ)によると、当時の南北に走る滑走路の東端の側溝の名残が田島家の庭の入り口にあって、また滑走路自体の名残が田島家の母屋の西の
柔道場の南側に広がるコンクリートであるという。そして
「この飛行場は、練習機や
小型飛行機用として建設されたと聞いている」とのことである。終戦後、滑走路のコンクリートは、東京の業者により、東京の復興のため砕かれてただで運ばれた。そのため
田島氏のアドバイスを受けて
「その業者から200円の通行税をとるようにした」という。
飛行機を導く誘導路は、滑走路の北端と南端を東側に突出来したカマボコ型で結ばれていて、現在でもその大部分が道路として使用されている。道路以外の使用としては
「しらこばと運動公園」や
「しらこばと水上公園」一般
駐車場の一部になっている。

参考文献は越谷市郷土研究会
会報「古志賀谷」
平成19年11月刊の礒谷智子樣
平成17年8月1日の発行の
埼玉新聞の記事「岩槻に幻の飛行場」(菊池正志氏)。
岩槻城と町まちの歴史を参照し、田島喜一氏の協力を得ました。
ありがとうございました。
私が知っているこの場所は
夏の季節にしらこばと水上公園で遊ぶ幸せな家族ずれ
でも夏季が終わればやはり
異様な雰囲気を感じます。
まさに終戦間際の幻の飛行場
の面影が私が参加した頃は
していました。18年位前ですので現在の景観はどうか?
今の私は現場に行けませんので、ごめんなさい。
季節の変わり目です皆様のご健康をお祈りいたします。