そんな使命を持つくらいなら、人間をやめたい | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

そんな使命を持つくらいなら、人間をやめたい

  人生の目的と使命について再考:哲学的視点から


最近、ある学習会に参加した際のことです。参加者の一人が「私たちは誰でも生まれる前から生きる目的や使命がある。その使命に沿って生きることが幸せなことである」と述べました。10年前の私なら、この意見に大いに賛同し、自分の使命について熱く語り合っていたかもしれません。しかし、哲学を学ぶ者として、この発言には様々な問題が含まれていると感じました。今回は、この私のモヤモヤを言語化してみたいと思います。

  1. 自由意志との矛盾


この「人間には使命がある」という考え方は、確かに分かりやすく、多くの人に支持されているかもしれません。しかし、生まれる前から既に生きる使命が決まっているという考え方は、運命論であり、人間の自由意志に真っ向から反対するものです。

哲学者のサルトルが「実存は本質に先立つ」と述べたように、人間は動物や物とは違い、どのように生きるかを自由意思で選び、創造していくことができます。しかし、生まれる前に生きる目的が既に決まっているという考えは、この自由を否定することになります。

一見、自分の使命を生きることは自分らしく生きることのように思えますが、実はそれは運命に左右された受動的な生き方であり、そこに真の自由はありません。さらに、この考え方は全体主義やファシズムに利用される危険性さえあるのです。

  2. 多様性と個別性の無視


「人間は誰でも生まれる前から生きる目的が決まっている」という考え方は、人間の多様性や個別性を無視しています。確かに、自分の生き方を一つに定めて、それに沿って生きていくことも自由です。しかし、目的や使命を定めずに生きていくことも、多様性の権利からすれば当然許されるべきです。

この考え方は、そう思わない人たちに対して新たな分断を生み出し、やがては対立の火種となる可能性すらあります。また、生まれつき生きる目的があるという考え方は、そういう考えに賛同しない人たちに不必要なプレッシャーや罪悪感を与える可能性があり、倫理的にも問題があります。

  科学的世界観との不整合


「人間は誰でも生まれる前から使命を持っている」という考え方は、科学的世界観と相いれません。現代の科学的理解では、人間は進化の過程で偶然生まれた生物種の一つに過ぎません。この見方からすると、人間に特別な目的や使命があるという考え方は、科学的な世界観と整合しない物語やファンタジーの可能性があります。

  4. 確認不可能性の問題


原理的に、人間には誰でも生まれる前から生きる目的が決まっているという考え方は、確かめることが不可能です。生まれる前にさかのぼって確認することはできませんし、生まれた後であっても、何が原因となって生きる目的が決まったかを確認することはできません。

本人が「あの時あの出来事があったから、今私はこの使命を生きている」と思ったとしても、それは本人の中の物語であり、他の人に対して証明することはできません。哲学的に言えば、使命や生きる目的というのは形而上学の中で捉えられ、確かめ可能性に開かれていません。そういうものがあるかどうかについては、エポケー(判断保留)することが最も賢明な態度ではないでしょうか。

  結論


結論として、決定論と深く結びついた人間の使命論は、極めて恣意的で物語的であり、厳密には誰も確認することができないものです。そこを思考の出発点にして、すべての人に行為を求めることはできません。他の人に対して合意を求めても、原理的にそれは不可能なので、必然的にそこにはプレッシャーや葛藤、対立を生み出してしまうことになるでしょう。

サルトルが言ったように、人間は道具や動物と違って自由な存在です。苦しいかもしれませんが、自由という重みを背負いながら、どのように生きるかということに関して、その都度責任を持って決断し、選択し、自分の意志で創造していくものなのです。それこそが、真に「自分らしく」生きることなのかもしれません。




野中恒宏