*此方の記事は、2021/03/16に公開したものを転載しています。

3/9付け当方のブログにて「荒川の瀬替え*」について記事にしましたが、現地でも当時の痕跡が分からず、消化不良状態になっていました。

3/9付け記事



*瀬替えとは
下記URLから国交相サイトにてご確認ください


この「瀬替え」については、国交相サイトの他、個人ブログなどの記事も確認しましたが、瀬替えが施された箇所は「旧久下村」としか記載されておらず、瀬替え箇所をピンポイントで明示した記事に辿り着く事ができませんでした。
一部明示している個人サイトがありましたが、信憑性は???って感じでした。

私は突如として興味を持ったド素人に過ぎませんが、恐らく先人の知識豊富な奇才の方々は認知されていることと思います。
もし、お分かりの方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて頂きたいと思います。

さて、明確な瀬替えポイントの探索について、何の知識もない私は、文明の力に頼るしかありません。
そこで古い空撮を再度掘り下げて確認したレベルではありますが、、、

以下の記事は憶測100%ですので、予めご容赦願います。

空撮画像では、過去に河筋のあった形跡をある程度読取る事ができます。

私が瀬替え箇所と想定した加工前後の画像を貼付します。




上記の空撮画像を観ると木々の生えている部分に自然堤防が構築されており、これは過去に河川境界があった事を示しています。
このことから、弧を描いた青線部分が旧流路の両川岸ラインであると解読し、瀬替えポイントは画像に記した場所であったと断定しました。

上記空撮画像の下流域でも河幅のある形跡が読取れましたが、この箇所の前後で流路を付け替えた形跡を画像上では確認できません。

上記北側の河筋ラインは、現在元荒川水源の流路になっており、先駆者の記事では、『かつて「大雷神社」付近に湧水があり、そこが水源であったが、現在その湧水は枯渇している。』との記事を見掛けた事があります。
このことについて、下記も私個人の憶測で恐縮ですが、この湧水は旧荒川の流路を埋め立てた土圧によって、地下水がその箇所から湧水となって流れ出たものと推測します。
更に埋め立てによる地下残水は、水量供給されなければ湧水は枯渇していきますので、これも経緯として想定できます。

次に治水地形分類図も重ねて確認資料として引用しました。




本図に於いても河川幅員があった事を確認できますが、私が解読したものとイコールの内容です。
もし、上記の場所から下流域で瀬替えされていれば、上記箇所が空撮に残された様な地形にはなっていないかと思われます。

上記に誤りがあれば、ご指摘頂けましたら幸いです。

最後に
上記の瀬替え箇所について、国交相荒川河川事務所の方なら認知されていると思い、確認しましたが「江戸時代の資料は残されておらず、明確な場所はわかりません」とのことで残念な結果でした。