いつ見てもモームのツートンカラーは映える。
遠くから見てもモームというのが、一目瞭然でわかる。
モームの小説の中でも、ツートンカラーではないものもあるのだが、何だか違和感を覚えるぐらいである。
2020年もG.Wに入り緊急事態宣言のなか、折角なので読書に色を付けてみようと思い、当時流行りの「おうちじかん」になぞらえ、家の蔵書のうち、それぞれの一文字がタイトルの頭につく小説を選書し(「ん」はどこか一文字)、「お」として読んだものが、モームの「お菓子と麦酒」であった。
実を言うと、「月と六ペンス」の最初の頁で、堅苦しさを感じ、途中下車した経験があるため、モームに苦手意識が付いていたのであるが、それでもこのが作品を揃えたというのは、きっとこのお洒落なタイトルからかもしれない。
あくまで私見であるが、「○○と○○」を成すタイトルは「と」の前後のものがささやかに強調されるうえ、響きが良いので記憶に残りやすいと感じている。
この「お菓子と麦酒」、ある男性が作家テッドの妻で魔性の女性、ロウジーと交際していた青年時代を回想するといった具合に、比較的平坦な物語なのであるが、ほんのさり気ない場面に、二つほど印象深い部分があった。
しかしながら、あくまで私見のため、感じる場所は人それぞれであると思う。
ひとつは、明らかに情事のあとと取れる部屋の中、ロウジーが鏡を前に居住まいを正しながら、青年アシェンデンに呼応する場面。
ここに立つ者と残される者の、言いようのないリアルな関係性を感じるのである。
つまり、割と真剣な想いの青年に対し、ロウジーにとっての青年は、単なる火遊びの道具に過ぎないという、そこはかとないギャップである。
もうひとつは、堅物で麦酒が好物の夫テッドを亡くした晩年のロウジーがある会合にて、私はお菓子が好物だと包みのチョコレートを手に取る場面である。
この「お菓子」には、彼女が時を経てすっかり落着いたという「現在」を印象付けるようにも取れるが、一方でチョコレートを男となぞらえると、彼女の選り好みは「過去」と一つも変わってないというものも感じる。
麦酒に関しては、もうこの世に居ないテッドが「過去」のものであるということを印象付けているようにも感じる。
以上がとりとめのない一素人の考察である。
なお、作中のテッドのモデルはあのトマス・ハーディとされている。