【第1場:高槻城】
◆息子右近は道を誤ったと村重に詫びる右近の父=高山友照。
信じていた右近の裏切りに衝撃を受ける村重。
【第2場:姫路城】
★姫路では、官兵衛の消息が不明のままではあるものの、
黒田三人衆を始めとした全家臣達が、
職隆と光に起請文(きしょうもん)を差し出し忠誠を誓っていた。
★殿は生きておられます!と叫ぶ家臣達。
皆で話し合った結果、有岡城下に忍び込み、
官兵衛の安否を探る「スパイ大作戦」を決行することになった。
>荒木村重の従兄弟であり、
>謀叛を支えた中心人物だった茨木城主=中川清秀が、
>右近に続き、態度を豹変させた。(ナレーション)
【第3場:摂津~信長本陣】
◆「村重はおぬし(清秀)の従兄弟ではなかったか?」と問う信長。
縁者であろうと、右近が信長にくだり、もはや勝ち目は無い~と、
茨木城と兵を差し出す清秀。
◆裏切りは世の習いと申すか?という問いに、
反射的に返事をしてしまうが、信長の恐ろしい形相に驚く清秀。
そんな彼に黄金三十枚を与えて許す信長。
※強い方に味方するのが世の常~と口にする中川清秀。
差し出した城や兵に対し、黄金三十枚という「利」で答える信長。
この両者、どちらも「~らしい」設定でしたね。
同じ信長に屈した武将として、前述の右近と清秀、
彼ら二人の対比も興味深いところです。
◆早速、有岡城の兵の様子や兵糧について質問する丹羽長秀。
また、官兵衛の消息をたずねる滝川一益の問いかけに、
村重が味方に引き入れようとしている~と答える清秀。
※余計なひと言が多い清秀くん。w
万見仙千代と同様、彼の発言は主観に満ちていて、
これだけでは、官兵衛が有岡城で厚遇され、
「村重から接待でも受けている?」と受け取れかねない。
この台詞は、彼の「変わり身の速さ」を表現していますし、
史実上の彼が、池田勝正、荒木村重、織田信長、羽柴秀吉と、
次々と主君を変えながらも、必死に生き延びようとしていた、
彼独特の処世術=ポリシーを上手に表現していたと思います。
※中川清秀(通称:瀬兵衛)メモ
有岡城攻めの二年後、1580年、秀吉から義兄弟の誓紙をもらう清秀。
秀吉と、どれほど濃厚な親交があったか?は定かではありませんが、
子飼いの家臣が少なかった秀吉から頼りにされていたのは事実でしょう。
「本能寺の変」後の、明智光秀との「山崎の戦い」においては、
秀吉から「上様は生きていて自分(=秀吉)が保護している」
~という書状を受け取り、わずかな疑念を持ちつつも秀吉に味方。
しかし戦いの直後、すでに信長はこの世におらず、
秀吉に騙されたことへ不満をつのらせていたところに、
はやくも羽柴政権の樹立を演出したい秀吉が通りかかり、
平伏している清秀に対し馬から降りることなく、馬上から、
「瀬兵衛、骨折り」と声をかけられた事で怒り爆発。
「猿めが、はや天下を取った気でおるわ!」と怒鳴り返すも、
秀吉は聞こえていないふりをしながら、その場を去って行きます。
後日、論功行賞の席にて、清秀への褒美は予想より少なく、
「口は災いのもと」と、万石大名への昇格を棒にふってしまった、
自らの言動を悔やみますが、
この翌年、柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」で起死回生を狙い、
なかば「おとり」とも言えるような最前線において、
柴田家の猛将=佐久間盛政の奇襲攻撃にあい、奮戦。
しかし、その猛攻に耐えられず戦死してしまいます。
【第4場:平井山~秀吉本陣】
★播磨の秀吉の本陣にて養生する半兵衛のもとに、
秀吉が~官兵衛が生きていた~ことを告げに来る。
★官兵衛が生きていたことを喜ぶ半兵衛。
味方に引き入れようとする村重から、
なるべく早く官兵衛を救い出す手立てを考えはじめる秀吉。
【第5場:有岡城】
◆有岡の城下には検問所が設けられ、他国の間者などが忍び込まないように、
厳しい取り締まりがおこなわれていた。
◆荷車を押す従者を引き連れ、商人に変装しながら城に近づく善助。
【第6場:有岡城~牢】
★牢内で苦しむ官兵衛。心配して中に入ってきた牢番を仕留めると、
壁の向こう側に待っていた、だしの手引きで屋外へ。
★裏門へ案内するはずの、だしだったが、そこに村重が登場。
無駄なことはやめよ、わしの軍師になれ~と説く村重、
毛利の援軍など来ない、織田には勝てないと説く官兵衛。
二人の話しは、またも平行線をたどり・・・、
※だしの手助けのもと、逃亡をはかる官兵衛。
このラスト近くのたった数分間の中に、
岡田官兵衛の創意工夫と、美術、編集スタッフの意気込みを感じました。
詳細は、次回の記事にて。でわでわ。(*^ー^)ノ
▼軍師官兵衛:第20回 ~官兵衛の三角飛び~