パソコンの動作がどうにも鈍い。
これは人間と同じで、不要なものを削ぎ落す必要があるんでしょ、と思って、僕はまず、デスクトップに置いてあるファイルの整理にとりかかる。
「文書1.docx」というファイルは、その存在をすっかり忘れていたのだが、いつかフェイスブックかブログ記事の材料にしようと考えて書き貯めていた、短文を羅列しただけの、文書ファイルだった。
そこにあった、こんな一文。
「恋」の旧字体「戀」を見て、「言葉の両側から糸で心に繋げば恋になるんだな」と想像すると、数日前に見た映画「君の名は。」をなんとなく思い出す。
実際には「戀」の成り立ちは「言(ことはり=理)に糸が絡みつき、思い切りがつけられない心の様子」なのだそうだが。
あれ?
これって、どこかからの引用なのだろうか。
それとも、僕のオリジナル?
いや、オリジナルのはずはない。
僕にはこんな文章、逆立ちしても書けっこないのだから。
それにしても、「戀」は「言(ことはり=理)に糸が絡みつき、思い切りがつけられない心の様子」。
日本語というのは、なんと奥深く、そして奥ゆかしいものなのだろうか。
調べてみると、昭和24年にそれまで使われていた難しい字体をやめ、簡単な字体を使うようにと、内閣が「当用漢字字体表」を告示し、その「当用漢字字体表」の中でも、簡略な字体に改められていた漢字を「新字体」と呼ぶのだという。
より簡便に、ということが、「戀」を「恋」に変えた。
その簡便さの裏で、失われたものの大きさに、僕は思いをはせる。
いまもなお、スピードは重視され、物事は簡単な方へ、簡単な方へと変化していく。
簡単ではあっても、そのための仕組みはとてつもなく複雑で、僕たちは自分自身が理解できない「仕組み」を「使う」ことだけがどんどん上手くなる。
でも、「使う」ことはできても、「使いこなす」ことまではできない。
僕は自分のスマホに備わった機能の百分の一も使わないまま、おそらく数年後には、機種変更する。
便利さの裏で、失われてしまったもの。
たとえば、戀心。一言一言、言葉を選びながら手紙を書く、あるいは夜、公衆電話からかける電話の、ドキドキした、あの気持ち。
便利さの裏で、失われてしまったもの。
それらはすべて、昭和人間の、ただの感傷なのだろうか。