人の名前 | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

ブログを立ち上げるに際し、いろいろと設定する中で、「テーマ編集」という項目があり、そこに僕は「患者の人権を考える」というテーマをひとつ、設定した。

父や母の介護を通じて、感じたこと、伝えるべきだと感じたこと、そういうことについても書きたい、と思ったのだ。

だが、あの頃のことを思い出し、それを文字にすることは、正直、あまり楽しい作業ではない。

いつまでたっても、このテーマの記事数は「0」のままだ。

でも、このテーマについても、そろそろ書くべき時が来たのではないだろうか。

 

最初は、そうだ、かつてフェイスブックに書き込んだあの記事をベースにしよう。

劇団四季の「キャッツ」を観終えたあとに書き込んだ、あの記事。

 

2016年9月10日

―――――

第二幕で登場する「劇場猫」のシーン。

今日は大丈夫だろうと思っていたが、やっぱりこのシーンで泣いてしまったのだ。

30代の頃に「キャッツ」を観たときには、僕はこのシーンを滑稽に感じていたのに。

 

ガスは「落ちぶれた芝居猫」で「かつてはすごい二枚目」だったが、今は「毛並みは荒れてやせ細り 老いさらばえて震えてる」。

いつだって「昔はよかった」と呟き、「近頃の役者は不真面目だ」「俺の時代は段違い」と嘆く。

そんなガスに寄り添うのが、ジェリーロラムという若い猫。

 

僕の父も母も、入院した途端、その名前を失い、病院のスタッフから「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれるようになった。

「かわいそうに」だとか、中には「私やったらこんなふうになってまで生きていたくないわ」という人までいた(僕に面と向かってこう言った中年の看護師さんはその後、ひと月ほどでその病院から姿を消したが)。

スタッフさんのなかには、幼い子どもに話しかけるように幼児言葉を使う人や、タメ口で話しかける人、口汚く怒鳴りつける人がいた。

それを見ながら、父や母に、他に行き場所を見つけてやることのできなかった僕は「“おじいちゃん”“おばあちゃん”じゃなく、ちゃんとした名前があるねんぞ」「病気になるまでは、人から尊敬されるような人やってんぞ」と、ただ、心の中で、悔しい思いを抱くことしかできなかった。

 

僕はガスに寄り添うジェリーロラムのようになりたかったのだ。

若いメス猫のジェリーロラムはガスとはどのような関係の猫だったのか。

ただ、彼女はそっとガスに寄り添い、ガスの「誇り」を大切にしている。

そして客席の僕たちを煽って、ガスに「喝采浴びた当たり役」グロールタイガーを「この世の名残に」演じさせるのだ。

 

僕は父と母の最期を見届けたら、看護と介護の勉強をしたかったのだ。

そして人が年老いても、「誇り」を失わずに生きていけるような世の中をつくる手伝いがしたかった。

だが、結果的に十数年続いた介護の最後の頃には、僕はもう必死で、自分が生き抜くことだけしか考えられなくなってしまっていたのだ。

そしてそのなかで、そんな「思い」をいつの間にか忘れてしまっていた。

卑屈でいることが癖になり、何も感じなくなってしまったのだ。

 

「キャッツ」の「劇場猫」のシーンを観て、僕はその頃の自分の「思い」を思い出す。

そして僕もガスに寄り添うジェリーロラムのように、どのようなかたちでもよいから、人の役に立ちたい、今更ながらに、そう思うのだ。

―――――

 

今からもう30年近く前のことなのだが、その頃、僕は病院で働いていた。

多くのスタッフさんが、僕のことを「〇〇さん」と名前で呼んでくれたが、ただひとり、僕のことを「薬剤師さん」としか呼んでくれない看護師さんがいた。

その理由は最後までわからなかったけれど、ずっと名前で呼んでもらえないことに、「ひとりの人間として見てもらえていない」感じを抱き、僕は残念だった。

女性が母親になった瞬間、周囲から、そして配偶者からさえも「お母さん」としか呼ばれなくなることに対して感じる淋しさも、このような感じなのだろうか。

 

父や母が入院していた頃から、かなりの年月が経った。

今ではもう、病院や施設では、その人を「名前で呼ぶ」ことが当たり前になっているのだろうか。

「名前を持つ、ひとりの人間」として、みてもらえているのだろうか。

そうだったらいいな、と思う。