はろー!めりーです!

不思議なこと
ですけれども!(・∀・)

人間って自分のことを
わかっているように見えて、
自分ではその姿すら
見ることができないのですね。

私たちは自分の顔すら
眼で見たことがないのです。
('-'*)(_*)('-'*)(_*)

鏡に映った姿や
写真やビデオの姿を見て
こういうものなんだと、
だいたい理解しているつもりですが、
例えば、身の回りの人の顔は、
一日、何時間も見ますが、
自分の顔を見る時間は
間接的に見るだけでせいぜい数分。
しかも直接見ることは
生まれてから死ぬまで、
一生叶わないわけです。

私たちは
物理的には自分より人のことが
よく見えるということですね。

一方、心は?

私たちは
協力して生きていくために
いつも人の気持ちを考えて
行動しています

でも、人の心はなんとなく
わかっているようなつもりでも、
それはほとんど
それを感じようとしている人の
想像でしかないと思うのです∑(゚Д゚)

私は、前にブログで、
愛とは水のようなもので、
愛をあつかうことは
水をあつかうことであるようだという
詩を書きました。

ふたりの関係性が
穏やかで澄んだ水のようであれば
きっと、相手の本心や気持ちが
透けるようであり、その気持ちを
汲み取りやすいのではないかなと
思います('-'*)(_*)('-'*)(_*)

でも、自分の主観が
そもそも相手に対して
攻撃的であったり、
自分が何かしらの
ネガティブな想いがあれば、
相手の本心とは違う捉え方を
うっかりしてしまうかもしれません。

乱暴であったため、
泉の中の泥が舞いあがり
水面が濁ってしまうような感じです。
本当は泉の水は元々は
美しかったはずですが、
もう何がなんだか
わからなくなるのです。

つまり、人の心を
素直に汲み取るには
自分の心の穏やかさが
必要なのかもしれません。

私たちは、いろいろな出来事から
傷ついたり、想いが複雑に交差したり
誤解しあったりしますが、

自分が穏やかでなければ
真意が汲めないことや
その結果誤解し合っている事を考えると
きっと悪い人は
誰もいないのだと思います。

そして、重要なことは、
自分が人の気持ちだと
思っているそれは
『自分が汲み取ったもの』で、
あくまで想像の範疇だと
気づくことに加えて、

自分の気持ちは自分だけしか
知り得ない
ということです。

本当の本当に、
自分の気持ちを知り得るのは
自分しかいないのです。

だからもし、
人の事を誤解してしまったり、
人から誤解されたとしても、
それは汲み取ろうとした時の
やり方がちょっと違ったという
ことで、誰かを責めても
仕方がないけれど、

自分の心だけは、
ちゃんと自分が聞いて
あげることが大事だと思うのです。

自分の辛さも、
自分から溢れる愛も、
本当にわかってあげられるのは
全部自分なのですね✨

だから、
『そうか、辛かったね、
泣いてもいいよ』とか、
『こんなに愛が溢れていることは
素敵だね』とか
自分の心に自分自身がもっと寄り添って
その結果、自分の心が癒されて
穏やかになれば、

誰かとの関係においても
澄んだ水のようになり、
真心を感じ合うことが
できると思うのです。

そして、私はこの記事の最初に
自分の姿は自分では見れないと
書きましたが、生活の中で、
ほとんど唯一、
見る方法があるのです。

それは、まだ鏡が祭祀の道具で
一般的ではなかった時代から
あったもの。
そう、水面に映った自分の姿こそ、
人類最初の鏡であり、
初めて見た自分の姿なのですね∑(゚Д゚)

そして私はツインレイの存在は
まさに愛の泉の水面に映った
自分の姿のような気がします。

微笑むと微笑み返して
くれるでしょう。

自分が絶望すれば、
水面の相手もそうでしょう。

乱暴にそれを手に入れたい
思えば、泥が舞いあがり、
姿は見えなくなるかもしれません。

愛をもって静かに、
水を、そっとすくうならば
その姿は手のひらの中におさまり、
もっと近くに感じられるかも
しれません。

そしてそれは、
必要な時に喉を潤す
命を繋ぐ水になるのだと思います。

なんとも不思議な関係
ツインレイだYO!(°∀°)b 

水面が大荒れなことも
あるかもしれないけれど、
きっとその荒れも永遠には続かず
穏やかになるタイミングが
あると思います。

その時にそっと、
穏やかな心愛の泉を
覗いてみてくださいね(*^.^*)✨✨