猫ちゃんのためのエサ『無一物(むいちもつ)』が届きました。
『はごろもフーズ』から発売されています。



涼華さんが少しでも余分な物が入っていないエサを探していたら見つけたようですが、原材料は『素材』と『天然水』だけらしいです。
問題はちょっとお値段が高めなので、人間が無一文になることです。

涼華さんに「猫のエサの無一文はどこにあるの?」と尋ねるたびに「いや、無一文はオレじゃねーか!」とつっこむ毎日です。
「無一物」はとても言いづらいネーミングだと思います。

『無一物』は「何もないこと。何も持っていないこと」という意味らしいです。
ちなみに『無一文』とは「一文の銭もないこと。金銭を全然持っていない」という意味らしいです。

つまり無一物を手に入れると無一文になれるわけですが、これを『むむむの法則』といいます。

むむむっ!

そんなわけで今日は『太陽』のお話です。

むむむっ!唐突すぎる!

「太陽信仰をしましょう」というわけではありませんが、地球上では太陽の存在のおかげで様々な生物が成長し、繁栄しています。
ですから太陽は生物にとって『命』を与えてくれている大切な存在といえるでしょう。

さて、「太陽はいくつありますか?」と尋ねると、「太陽はひとつ」という答えが返ってくると思います。
おそらく小さな子供でもわかることだと思います。

むしろ太陽がいくつもあったら大変なことになるわけですが、「世の終わりには太陽がいくつか出てくる」などともいわれています

『日月神示』という神示には「天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出てきたら、この世の終わりと思え」という予言の一文があります。
そのため日月神示を信じている人は「いつか太陽が二つ以上出てくる」と信じているのではないかと思います。

不思議なことですが、近年は『太陽のような光』がいくつか見えたり、太陽を撮影すると『太陽が二つあるように見えるような写真』が撮影されることがあるようです。

ただし、『視覚的』に太陽がいくつ見えようが大きな問題ではありません。
もし『本物の太陽』が二つ三つ登場すれば太陽光の刺激が強すぎて間違いなく生物は死滅します。
ですから、実際には「太陽はひとつ」という事実は変わらないわけですし、あくまでも目の錯覚にすぎません。

ちなみに人間にとっての『光』とは、太陽に限りません。


人間を繁栄させる光は、太陽などよりも、人間社会での『栄光』の方が魅力的に見えるからです。
それは『権力』、『地位』、『名誉』、『人脈』、『資金力』、『高価な装飾品』など様々ですが、求める『光』は人それぞれだと思います。
また、一部の信仰者は『信仰している神様』が自分にとっての光なのかもしれません。

つまり「人間が崇拝する光はいくつも存在する」といえます。

何を崇拝しても、どのような光を求めても本人の自由です。
しかし人間にとっての『様々な光』が増えると、結局どうなるかといいますと「闇に覆われた世界」になるわけです。

「光がたくさんあるのになぜ闇に覆われるのか?」

とても不思議なことに感じるかもしれません。
しかし様々な光が溢れた時に「どれが本当の光ですか?」と問われても、答えられる人は少ないのではないかと思います。


つまり『偽物の光』が溢れると、『迷い』が溢れることとなり、求めるべき光がわからなくなっていくわけです。

そして求めるべき光がわからない状態は『不安』も増していくはずです。

たとえば現在は新型コロナのワクチンで「接種する」、「接種しない」という二択のような状態になっていますが、『二択の問題』で人間社会は混乱しています。
どちらかが正解なのかはあえて触れませんが、人間社会は「二択ですら答えがわからない」ような状態です。

つまり二択ですら迷う状態なのに『いくつもの光』があれば混乱は悪化し、「一体どこに求めるべき光があるのかわからない」という状態になるのは仕方ないかことかもしれません。

ちなみに人間社会では、『権力』、『地位』、『名誉』、『人脈』、『資金力』、『高価な装飾品』を得ることで、確かに「他の人よりも輝いて見えるようになれる」かもしれません。
ですから、求める光としては『正解』なのかもしれませんが、人間社会での『栄光』を追い求めても「自分自身が満たされるのか?」となると、満たされるのは『虚栄心』だけかもしれません。

一部には虚栄心を満たすことで「私は満たされている」と喜ぶ人もいるかもしれませんが、それはとても幸せなことなので、死ぬまで突っ走ればいいと思います。
むしろ、暴走した状態を止めるのは「突然転ぶ」という幸運が起こらない限り、とても難しいことだからです。

順調に物事が進んでいる時に「転ぶ」ということは不幸に感じるかもしれません。
しかし自分自身の暴走を気づかない人にとっては、「転倒することで気づくこともある」はずです。
ですから突然の転倒は『天から与えられた救いのチャンス』なのかもしれません。

話を戻しますが「世界が闇で覆われた時、どこに光があるのか?」と悩み、自分自身で必死に考える人はとても『幸運』だと思います。

『自分の外側』に様々な光が溢れた時、自分だけではなく『他者』も答えがわからなくなっている状態かもしれません。
そのため周囲が「答えを知らない」という人だらけになった時、人間社会には『嘘』が溢れます。
そして自分自身で考えることを放棄した人は、嘘に振り回され続けることになり、迷いと不安だけが蓄積していくかもしれません。

「それでは嘘に騙されないためにはどうするのか?」

目を閉じ、耳を塞ぎ、『自分の内側』に問いかけることです。
わからないのであれば、わかるまで自分の内側に問いかけてみてください。

なぜならば、周囲に尋ねても「嘘に騙された嘘つきが溢れているだけ」だからです。
声を聞くたび迷いと不安に振り回されるだけです。

焦る必要もありませんし、慌てる必要もありません。
「いつかわかる時がくる」と信じて、とにかく自分自身の内側から離れないことです。
そうすれば、少しずつ闇に隠れていた光が見えてくると思います。

『外側』に太陽がひとつあるように、『内側』にも『中心となる光』があります。

『内側の光』は目には見えないかもしれません。
また、太陽ほどわかりやすい光ではないかもしれません。
しかし必ず存在します。

太陽の光は地球上の生物を繁栄させてくれますが、人間の内側にも他者を含め様々な存在を繁栄させることができる『愛の光』があるからです。


そして、その光は生涯消してはならないものです。
人生には様々な誘惑がありますし、欲望に傾く時もあるかもしれませんが、内側の光こそが闇の中を照らしてくれます。

 

ちなみに自分自身との繋がりが増えますと『直感』も高まってくると思います。

直感は『危険察知』にもなりますし、自分自身を助けてくれるガイドになるはずです。

むしろこれからの世界は『直感的な判断』がとても大切になると思いますので、ぜひ自分自身との繋がりを深めることをオススメいたします。

 

「無一文になれ」とはいいませんが、無一物になり、無一文になった時ほど、人間は大切なことに気づく機会が多いのではないかと思います。

『本来無一物』です。

 

 

ちなみに『太陽信仰』を大切にしている宗教も存在します。
太陽を含め、自然に対して感謝の気持ちを持つことは大変素晴らしいことだと思います。
しかし太陽に必至にお祈りを続けると、日射病か、皮膚がんになってしまうので、あまりオススメできません。

太陽を含め、大いなる自然に常に愛されていることに感謝して、同じように大いなる自然を愛することが大切だと思います。
そうすれば人間は「無駄に自然破壊を続ける」という愚かな行為を反省し、むしろ自然を繁栄させる方法に変わるはずです。
それは思いやりであり、愛で繋がるからこそ自然と可能になる『自然な世界』の状態だと思います。


余談ですが、世界各地に存在する『様々な予言』には「世の終わりの前には全ての人に暗黒の三日間が訪れる」などと伝えられています。
そして「暗黒の三日間は窓を開けてはいけない。なぜならば誰一人逃れられず、多くの人が死ぬことになる」という不気味な内容になっています。

このような内容に似たような予言がいくつも存在するわけですが、多少の表現の違いはあっても「暗黒の三日間」は共通しています。
また、「窓を開けてはいけない」や「何があっても外を見てはならない」という点も共通しています。
さらに「祈ることの大切さ」も共通しています。

つまり全ての予言は『信仰に関すること』に関係していると思います。

今回お伝えしている「世界が闇で覆われた時は、目を閉じ、耳を塞ぎ、自分の内側に問いかける」ということが、「暗黒の三日間は窓を開けてはいけない」に繋がると思います。

ちなみに終末についての予言で「人々は都市から逃げ出し、田舎に避難する。人々は十字が3つ並んだ山を探す。その中では人々は生きていくことができる」という内容があります。

ミタール・タラビッチの『クレムナの予言』の一文ですが、この予言に興味を持った人たちは世界地図を眺めながら「十字が3つ並んだ山とはどこの山なのか?」と探しているようです。

様々な説がありますが、『信仰者』でないと絶対に見つからないと思います。
なぜならば「世界地図には存在しない山」だからです。

伝説上では『イエス・キリスト』様が十字架に磔(はりつけ)にされた場所が『ゴルゴタの丘』となっています。
そこでイエス様は処刑されてしまいますが、イエス様の両隣には2人の犯罪人も十字架に磔にされていたとされています。
つまり3つの十字架が並んだ山とは『ゴルゴタの丘』という意味になると思います。



ちなみにゴルゴタの丘と伝えられている場所は、現在は『聖墳墓教会』が建てられているということです。
そのため、ゴルゴタの丘であり、3つの十字架が並んだ山はもはや存在しません。
ですから、世界地図をどれだけ眺めても見つからないわけです。

「それでは十字が3つ並んだ山とは何?」ということですが、イエス様は『隣で十字架にかけられていた犯罪者』に下記の言葉を伝えたとされています。

聖書によって表現方法が変わると思いますが「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」という言葉です。

『パラダイス』の意味は『エデンの園』、『天国』、『楽園』、『神の国』、『天の御国』など様々な表現があるようですが、とりあえず『天国』という意味にします。

3つの十字架が並んだ山のゴルゴタの丘でイエス様は「天国にいます」と伝えたわけですが、つまり世の終末に人々が探すべき場所は『天国』ということです。

問題は「天国を目指すのであれば死ななくてはいけないのでは?」ということですが、人間が目指す場所は『地上天国』です。
クレムナの予言は「人間が生きて地上天国に進むための予言」であり、そのためには『揺るぎない信仰心』が必要です。

ですから、信仰心が無い人が世界地図上で十字が3つ並んだ山を探しても絶対に見つかりませんし、絶対にたどり着けません。

ただし信仰心といっても、宗教を信仰する必要は全くありません。
自分自身の内側に存在する『神』であり『愛』から絶対に離れないようにすることが大切だと思います。

「終末など単なる妄想」と思われるかもしれませんが、数千年前から様々な宗教や予言で「いつか必ずその時が訪れる」と警告されています。
「いざという時」はもはや手遅れかもしれませんし、「神様助けてください」とお願いしても助けてもらえないかもしれません。
 

ですから頭の片隅にでも「心を大切にして、愛から離れないことがあなたを救う唯一の道となる」ということを覚えておいていただければと思います。

ちなみに「いますぐ」などの話ではありませんが、「何となくそろそろ危ない」ような気がします。


不安にさせたいわけではありませんが、天災の増加、気候の異変、世界規模の感染症、人心の乱れ、、犯罪の増加、動物の異常行動など、「血の出るような戦争が無いだけまだマシ」程度の状態になっています。

「世の終末の時が近づいた時に起こる」と伝えられていた『兆候』がいくつも発生しているわけです。

たとえば新型コロナが流行してからまだ2年も経過していませんが、世界情勢は激変しています。

困ったことに、予知では終末の時期が探れません。
他の予知能力者も無理だと思いますし、おそらく探れないようになっているのだと思います。


だからこそ「ある時に予期せぬような出来事が突然起こる」という可能性があり、その時に多くの人は「現在の日常はいつまでも続く」と呑気に暮らしている状態だと思います。
念のため、ご注意ください。